日本では起こりえなかった「交渉の決裂」...言葉に宿る責任感とは?
キッコーマンをその後退職した私は、このエピソードをジョージア人にたびたび紹介してきた。そのたびにいつも驚かれ、決まって質問されるのは「もし約束がほごにされたら、どうするのか?」ということだ。
私はいつも「そういうことは日本ではめったに起こらないし、もし約束を破るようなことをすれば、社会的な信用を失うことになる」と答えている。日本人は、言葉に対して非常に大きな責任を持っているのだ、と。
この「言葉の重み」は、ビジネスだけではなく政治の世界にも通じる。首脳の記者会見を比較してみると、その違いがよく分かるのではないだろうか。
日本の首相の記者会見では、質問は事前に通告され、それに対する回答も書面で準備されている。それに対して、ジョージアやアメリカではジャーナリストが記者会見場でいっせいにさまざまな質問を投げかけ、その中から首脳が選んで即興で答える。
つまり問われているのは回答だけではなく、その場でどのように振る舞い、どう答えるかという「その場の対応力」だ。
しかし、日本では回答の中身だけではなく、「言葉の誠実さ」が重視されている。
私が冒頭でゼレンスキー大統領とトランプ大統領の会談で起きたような決裂が日本では起こりにくいと述べたのは、つまり事前に慎重に選び抜いた言葉を公の場で話す以上、想定外の方向には向かいにくいということである。