イスラム教の問題作『悪魔の詩』の作家が自叙伝を発表「自由という理想の火を消してはいけない」
SALMAN RUSHDIE’S NEXT ACT
あのファトワ以来、ずっと彼の命は狙われていた。『悪魔の詩』を日本語に訳したイスラム学者の五十嵐一は何者かに殺された。やはり『悪魔の詩』をイタリア語に訳したエットレ・カプリオーロも刺された(死は免れた)。『悪魔の詩』をノルウェーで出版したウィリアム・ニゴールも銃で撃たれた。
その一報を聞いたラシュディが電話をかけたとき、ニゴールはこう言った。「君が謝ることはない。私も大人だ。私は『悪魔の詩』を出版したいと思ったし、出してよかったと思っている。本当だよ、たった今、大増刷を決めたところだ」
新著『ナイフ』で、ラシュディは2年前の襲撃後に耐えなければならなかった苦痛と苦悩の日々を詳細につづっている。この本で最高に輝いているのは彼の妻レイチェル・イライザ・グリフィスだ。彼女の勇気、確信、支援、そして愛がラシュディの回復を助けた。
ラシュディは暴力に屈せず戦う意志の力を示し、勇気こそが勝利につながることを示した。肉体は傷ついても、彼の才能(言葉の連想、神話や文学作品や歴史から物語を紡ぎ出す驚異的な記憶力、そして遊び心)は少しも衰えていない。
今回の自叙伝で、ラシュディは22年の夏に襲撃の予兆を感じたと書いている。命を狙われる数日前の夜、彼は槍(やり)を持った男が襲ってくる夢を見た。それでも悪い夢が現実になるはずはないと、ラシュディは自分に言い聞かせた。しかし、あの日、彼は自分に向かって突進してくる逆上した男の姿を見た。
「おまえか。ついに来たか」。そう思ったとラシュディは書いている。「だが、なぜ今なんだ? 遅いじゃないか、なぜ今なんだ?」
なぜ今、という疑問は本心から出ていた。ラシュディはインドで最も国際的な都市ボンベイ(現ムンバイ)に生まれ、その後、多言語都市のロンドンに移り住んだ。
だがファトワが彼の自由を奪い、彼の著作に対する無慈悲で粗野な批判が続くなか、世紀の変わり目に彼はロンドンを離れ、誰にも束縛されない国際都市ニューヨークへ移った。ラシュディはやり直したかった。あのファトワの影から逃れたかった。『悪魔の詩』一冊だけの作家のように思われるのは耐えられなかった。
独立後のインド、それもボンベイで生まれ育った私たちにとって、ラシュディが1981年に発表した小説『真夜中の子供たち』は衝撃だった。あれを読んで、ああ英語は自分たちの言語なんだと感じた。外国語じゃない、英語は自分たちの言語なのだと。
筆者は1983年に、初めてラシュディに会った。『真夜中の子供たち』でブッカー賞を受賞した彼がインドに凱旋したときのことだ。ところがインドは他国に先駆けて、1988年に『悪魔の詩』の輸入を禁止した。事実上の発禁処分。なぜだ、と私たちは思った。