元福島原発作業員、起業家、ピカチュウ姿のボランティア...戦火のウクライナで生き抜く日本人たちの実話
JAPANESE IN UKRAINE
夜明け前の待ち伏せ攻撃
ウクライナ戦争では、複数の日本人が義勇兵としてウクライナ軍と行動を共にしている。戦争初期の激戦地ハルキウ州イジュームの最前線から約10キロ離れた場所で22年9月に会ったのが、富岡さん(仮名)だった。
富岡さんは20代半ば、関東出身、前職は建築関係で22年5月にウクライナ入りした。自衛隊や他国の軍隊の経歴はなくウクライナ語やロシア語も分からず、ただウラジーミル・プーチン大統領とロシア軍の非道を許せないと感じたのが理由だった。
ポーランドからバスでウクライナへ。兵士の採用事情も分からないまま、バスを乗り継ぎ中部の都市ドニプロまで行き、情報収集した。SNSでウクライナに滞在する義勇兵志望の日本人とつながり、その後入隊を模索している外国人グループに合流。領土防衛隊に属する部隊に入隊して、イジューム南部、リマン近郊で任務に就いた。
入隊から約7カ月後には、当初いたメンバーは司令官、司令官補佐と富岡さんの3人だけになり、部隊で一番の古株になっていた。その間に仲間は戦死したか、負傷したか、何らかの理由で除隊していった。兵士の間で「スーサイド(自殺)ポジション」と呼ばれる、地形的に明らかに危険な塹壕でロシア軍の砲撃にひたすら耐えるだけの任務もあった。その過酷さに、思い描く戦争とのギャップを感じて帰国していった兵士もいた。
22年12月、2分隊(12人)で配置場所に向かう途中にロシア兵に襲撃をされた時は本当に死ぬと思った。夜明け前、歩兵戦闘車に乗って塹壕手前まで行き、武器や荷物と食料や水を降ろして塹壕に向けて歩き始めた途端、すさまじい数の銃弾が自分たちに向かってきた。薄暗い中でこちらからは敵がどこにいるかも分からず、応戦する余裕もない。
地面に身を伏せながら、目だけで辺りを確認すると近くに小さいくぼみを発見した。ウクライナの土は水はけが悪く粘着質で、車両が通った後はわだちがそのまま深い溝になり、冬になるとそのまま凍る。
そのくぼみまで匍匐(ほふく)前進で向かったが、頭上から絶えず銃弾が風を切る音が聞こえ、ときおり曳光(えいこう)弾もはっきり見えた。富岡さんが飛び込んだくぼみは深さ20センチ足らずで、体の一部が地面から出ている状態だ。「とにかく早く終わってくれ、ミサイルは飛んでくるな」と念じながら、じっとしていた。
数分後に銃声が鳴りやんだ後、とにかく全員でその場をすぐに去り、配置場所の塹壕へと向かった。銃撃戦は珍しくないが、待ち伏せは初めてだった。「今にして思うと、あの状況で負傷者がゼロというのは奇跡に近い」と、富岡さんは振り返る。
23年2月に一時帰国した後、3月に再度ウクライナ入りし、第204独立領土防衛大隊の砲兵として入隊した。後方からAGS‒17(グレネードランチャー)を撃つ任務のため、いくらか危険は減った。
「これまで何度も死にかけました。一緒に戦った多くの仲間が負傷、戦死しています。その分生き残っている仲間との絆が強くなり、個人的な思いで途中でやめるわけにはいかない」と、富岡さんは言う。「兵士として戦いに来たので、雑音は気にせずにやるべきことをやるだけです」