ハマスはイスラエルに「必要」な存在だった...パレスチナ「75年間の歴史」で、紛争を基礎から理解する
Vengeance Is Not a Policy
イスラエル政府としては、PLOに自治を認めれば、パレスチナ大衆の反イスラエル感情を抑え込んでくれると期待していた。しかし、イスラエルはこの構想の失敗を運命づける行動を取った。ヤセル・アラファト率いる暫定自治政府に十分な権限を与えず、PLOがパレスチナの人々の間で正統性を獲得することを妨げてしまったのだ。
オスロ合意の後、ヨルダン川西岸のユダヤ人入植地が拡大の一途をたどり、95年11月にはオスロ合意に署名したイスラエルのイツハク・ラビン首相(当時)が和平反対派により暗殺され、2000年に第2次インティファーダが始まって暴力が爆発的に増加した。これにより、交渉を通じてヨルダン川西岸とガザにパレスチナ国家を建設し、オスロ合意でうたわれた「2国家共存」モデルを実現できる可能性は完全についえた。
監獄の「看守」と「囚人組織」
02年には、イスラエル軍がヨルダン川西岸ラマラに侵攻して自治政府議長府を包囲し、アラファトを軟禁状態に置いた(アラファトは04年に、移送先のフランスで死去)。
イスラエル政府は05年、貧困にあえぎ、イスラエルに敵意を抱くガザの膨大な数のパレスチナ人を支配下に置くことの負担を取り除くために、ガザから軍の部隊と8500人の入植者を引き揚げた。この措置には、ガザとヨルダン川西岸を切り離すという狙いもあった。
06年1月に実施されたパレスチナの総選挙でハマスが勝利すると、イスラエルはアメリカの力を借りて新政権の転覆を試みた。ハマスに代えて、PLO主流派のファタハにガザを統治させたいと考えたのだ。
しかし、この試みは失敗に終わり、ハマスはファタハの部隊を破ってガザを制圧し、同地区での政治的優位を確かなものにした。それを受けて、イスラエルはガザを封鎖し、イスラエルとの間での人やモノの出入りを厳しく制約した。
こうして、ガザは天井のない監獄になった。ここで暮らす人たちは、食料、水、電気、交易、郵便、漁業へのアクセス、医療、外界との接触など全てをイスラエルに依存せざるを得なくなった。
イスラエル政府は、ハマスを監獄の囚人組織のように扱い始めた。そしてこの監獄の囚人たち──裁判も経ずに、全員が終身刑を宣告されているに等しい──がイスラエルに害を及ぼすことを防ぐために、ハマスに一定の役割を期待するようになったのだ。