ハマスはイスラエルに「必要」な存在だった...パレスチナ「75年間の歴史」で、紛争を基礎から理解する
Vengeance Is Not a Policy
この内戦と、イスラエル軍と48年5月にパレスチナに侵攻したアラブ諸国軍の戦闘(第1次中東戦争)、そしてアラブ人国家となるはずだった土地のアラブ系住民に対するイスラエルの追放キャンペーンの結果、75万人のパレスチナ人が故郷を追われた。そのうち20万人は、エジプト軍が占領した地中海沿いの狭い土地に逃げ込んだ──ここが後のガザ地区だ。
イスラエルは避難または追放された住民の帰還を拒み、彼らの村や町を破壊したため、故郷を追われたパレスチナ人は難民となった。
49年の休戦以降、この地区の支配者はエジプト、イスラエル、エジプト、そして再びイスラエルと次々に入れ替わった。一方、難民の人口はすぐに元からの住民を上回った。
イスラエルがハマスを「誕生させた」思惑
70年代前半にはイスラエルの占領に対する激しい抵抗運動が続いた。これに対し、後にイスラエル首相となるアリエル・シャロン南部方面軍司令官は建物の密集したガザをブルドーザーで破壊して回り、数百人のパレスチナ人を殺害し、難民キャンプを拠点にしていた過激派のパレスチナ・ゲリラを粉砕した。
イスラエルはムスリム(イスラム教徒)の宗教的アイデンティティーをパレスチナ人のナショナリズム以下の脅威と見なし、イスラム組織ムスリム同胞団のガザ支部を支援した。87年末に始まった第1次インティファーダ(パレスチナ人の反イスラエル闘争)までに、同胞団がPLO(パレスチナ解放機構)の主流派ファタハに対抗するハマス(正式名イスラム抵抗運動)を創設できたのも、この政策のおかげだった。
イスラエルが宿敵であるハマスの誕生に一役買ったと聞くと、驚くかもしれない。しかし、今回のハマスによる攻撃以前の段階でベンヤミン・ネタニヤフ首相らが公然と述べていた言葉を知れば、それほど意外には感じられなくなるだろう。
それは、真の敵と見なすべきはハマスよりパレスチナ自治政府であるという趣旨の発言だ。自治政府はパレスチナ人ナショナリズムを強く抱いていて、イスラエルと別にパレスチナ国家を樹立することを目指している。それに対し、ハマスは、自治政府の政治的立場を脅かす存在として有益だ、というわけだ。
93年9月のオスロ合意は、イスラエルがそれまでの戦略を転換したものと言えた。この合意は、イスラエル軍が占領地のヨルダン川西岸とガザ地区から撤退し、パレスチナ側が暫定的な自治を始めるものとした。
その際、イスラエル政府は、受動的に見えていたムスリム同胞団ではなく、野心的なPLOのリーダーたちを自治政府の担い手として承認し、頼りにすることにしたのだ。