ハマスはイスラエルに「必要」な存在だった...パレスチナ「75年間の歴史」で、紛争を基礎から理解する
Vengeance Is Not a Policy
第3次中東戦争でエジプトのシナイ半島へ進むイスラエル軍の戦車(1967年6月) AP/AFLO
<イスラエルとハマスの奇妙すぎる関係史を解説。ガザという名の監獄を解体しない限り「囚人たちの反乱」はまた起こる>
イスラム組織ハマスとイスラム聖戦が10月7日、イスラエルに仕掛けた奇襲攻撃──その驚くべき光景と恐怖のせいで、この事件の原因と再発防止策を正しく理解するのが困難になっている。
この襲撃に関する報道は、残虐性と半世紀前の第4次中東戦争との不気味な類似を強調してきた。1973年当時、イスラエルの情報機関は全知全能で、プロ集団の軍は事態をしっかり管理しているという「神話」が流布していたが、スエズ運河付近やゴラン高原で勃発した緊急事態はそんな評判を粉々に打ち砕いた。
■【画像】パレスチナ紛争75年の歴史まとめ「年表」と、領土変遷マップ
だが今回の失敗のショックはさらに大きい。この攻撃が占領地の駐留軍ではなく、イスラエル領内の民間人に対するものだったからだ。
目撃した虐殺の原因を知りたい、この問題に対処したいと私たちが本気で願うのであれば、視点の「時間枠」を変えなくてはならない。さもなければ、私たちは同じ光景を再び目撃することになる。
物語の語り手ならば、誰もが知っている。どこから話を始めるかを決めれば、語り手の仕事の大半は完了するということを。この事件を10月7日、安息日の祝日の朝から始めるなら、アメリカの9.11同時多発テロ(2001年)と同じ物語──いわれのない野蛮な暴力にさらされた無垢な犠牲者の物語になる。
しかし、もし始まりが1948年だったとしたら? かつて祖父母が暮らしていた土地に、武装した子や孫が一瞬だけ戻り、暴力行為を働いたとしたら? 物語の倫理的意味と、納得のいく結末の条件は一変する。
ハマスらが始めたのは戦争ではない?
この長い時間枠で見れば、ハマスとイスラム聖戦は戦争を始めたのではない。監獄で反乱を起こしたのだ。それを理解するためには、歴史的背景を少しだけ知る必要がある。
48年5月にイスラエルが建国を宣言する以前、ガザ周辺の土地にはパレスチナ系アラブ人の町や村が数十あった。最大の人口集積地はアル・マジュダル──現在は完全にユダヤ人の都市となったアシュケロンだ。
国連総会がパレスチナをユダヤ人国家とパレスチナ系アラブ人国家に分割する決議を採択した47年11月、この地域(ガザとその周辺、ネゲブ砂漠の一部を含む)はアラブ人国家に振り分けられた。だが国連には、この決議を実現するための資金、軍、行政機構を提供する力がなかった。
この地域を30年近く委任統治していたイギリスは、パレスチナを放り出し、都市や地域から次々と軍を撤退させた。その過程でユダヤ人とアラブ人は、どの地域が自分たちに帰属するかをめぐり血なまぐさい内戦に突入した。