他人の悲しみや苦痛を美談化し、使い捨てするメディアへ【エモを消費する危うさ:後編】
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<「有害なポジティブさ」とは何か? 「使い捨て」を供給するメディアと、それを消費する読者たちの共犯関係。いま、話題の論客が言葉の力について思うこととは>
※第1回:貧困に生まれ「いじめ」に苦しんだ私を外の世界に連れ出してくれた作文【エモを消費する危うさ:前編】より続く
アマゾンで買った「中古1円」の参考書で独学し、苦学の末に大学へ進学。社会に出てからは奨学金を返済しながら発信を続けている20代の論客がいる。社会で「無いもの」とされる存在に光を当てる、ライターのヒオカ氏だ。
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制服が買えなかったこと。習い事や塾に通えなかったこと。大学でレポートを書くためのパソコンが買えなかったこと......。そうした経験から「あなたのすぐそばにいるかもしれない誰かの痛みに目を向けよう、みんなで社会を生きやすくしよう」と前向きに呼びかけている。
居場所がなかった中学時代。言葉で思考を整理し、表現することで救われたというヒオカ氏が、SNS全盛のいま、言葉について思うこと。そして、メディアとその読者について思うこととは? 今話題の初著書『死にそうだけど生きてます』(CCCメディアハウス)より抜粋する。
仕事柄というより、もともとの習慣で、毎日大量のネット記事を読んでいる。しかし、たいていこの作業のあとはいつも疲弊する。ネット空間にはセンセーショナリズム(扇情主義)が溢れているからだ。
報道の大義として、あらゆる「現実」を伝えることは公益性を帯びるものだ。しかし、明らかに故意に、大衆のグロ・ポルノ消費欲を煽るものがあまりに多い。文章は、書く人の人柄、目的、指向などを色濃く反映する。そしてタイトルや見出しには、編集する人の意図が組み込まれる。
公益に資するという純粋な動機とはかけ離れ、いかにセンセーショナルに、悲惨に、大げさに、エキセントリックに見せるか。そうした部分を抽出し、盛り立てるか。意図が透けて見える。
メディアのセンセーショナリズムは常に批判の対象となる。一方で、これは読者との共犯関係でもある。
人間はグロいものに惹かれる。悲惨なものを、無意識に半ばエンターテイメントとして消費する。センセーショナリズムはPVを稼ぐには有効だ。しかし、「問題」を「問題」として伝えようとする時、障害になり得る。
『死にそうだけど生きてます』
ヒオカ 著
CCCメディアハウス
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