中国共産党の権力闘争と自民党の派閥争い
1989年6月4日の天安門事件後に、まるで天から降ってきたような中共中央総書記と中央軍事委員会主席のポストは、中央に政治基盤のない江沢民にとっては驚きと喜びとともに、「不安」を伴うものだったにちがいない。
何しろ父親が日本の傀儡政権(汪兆銘政権)の官吏だったので、ダンスやピアノができ、酒が入ると「月が出た出た~、月が出たぁ、ヨイヨイ・・・」と炭坑節(たんこうぶし)を口ずさんだ。そんな風だったから、日本敗戦に伴ってあわてて共産党に近づき、1946年に党員になった。その後は現在の中共中央政治局常務委員会(チャイナ・セブン)の一人である汪洋の父親・汪道函によって引き立てられ工業部部長にまでなりはしたものの、北京には政治基盤などない。
だというのに、1993年には国家主席にまでなっている。それも全て鄧小平の一存で決められた。
だから鄧小平生存中は何とかなったが、鄧小平が政治舞台から消え始めた1995年あたりからからは、ひたすら「金」を使って培ってきたネットワークで政治を動かし始めた。
地方政府だろうが中央政府だろうが、はたまた中共中央委員会常務委員会だろうが、党と政府の要人のほとんどを利権で結ばれている配下によって占めさせ、江沢民に権力が集中するようにしたのである。
その結果、賄賂でしか政治は動かないようになってしまったために、言語を絶する「腐敗」が全中国を覆いつくした。その金額は国家予算を上回るほどで、中国国内の銀行では巨額すぎて目立つので、アメリカなど海外の銀行に貯蓄したり、紙幣を入れるためだけの家を建て、紙幣がカビてしまって使い物にならなくなったりしたほどだ。
最も肥え太っていったのは軍部で、軍部は司法さえ立ち入ることのできない「腐敗の温床」と化していった。
胡錦涛政権「チャイナ・ナイン」までは江沢民による激しい権力闘争
鄧小平は江沢民を2002年までの中共中央総書記・中央軍事委員会主席、2003年までの国家主席とし、次代は胡錦涛がそれに取って代わるものと指名していた。そのため鄧小平は1997年に他界したものの、江沢民は渋々ながらも鄧小平の指名通りに動くしかなく、2002年~2003年に胡錦涛政権が誕生した。
しかし胡錦涛政権のチャイナ・ナイン(中共中央政治局常務委員会委員9人)に、江沢民は6人もの刺客を送り込んで、胡錦涛の決定権を奪った。なぜならチャイナ・ナインでは多数決議決を絶対的原則としていたからだ。
胡錦涛は何とか腐敗と闘おうとしたが、江沢民派の6人によって常に否決され、実行することができなかった。