自らの至らなさを自覚できるからこそ人間は偉大...現代世界の根源的理解を「神学」に学ぶ
善き御力持つ者らに
善き御力持つ者らにかかわりなく静かに囲まれ
護られ、こよなく慰められ
わたしはこの日々をあなた方とともに生き
ともに新しい年へと入ってゆく
いまなお古い年は私たちの心を苦しめ
いまわしい日々が私たちに重荷を負わせようとする
ああ、主よ、私たちの愕然たる魂を救いたまえ
そのためにあなたは私たちをお造りになったのです
あなたの差しだされるのが重く苦い苦悩の
なみなみとつがれた盃であろうとも
私たちはあなたの好ましい御手よりそれを
震えることなく感謝にみちて受けましょう
でも今一度あなたが私たちにこの世界と
その太陽の輝きの悦びを贈ってくださるなら
私たちは過ぎ去ったものを思い起こしつつ
人生を安んじてあなたに委ねます
私たちの暗闇にもたらされた蝋燭の火を
今日は暖かく明るくともしてください
なろうことなら私たちをまた一つに導いてください
知っています、あなたの光の夜輝くことを
深い静寂が私たちのまわりに広がるとき
眼に見えることなく私たちをつつむ世界の
かの澄んだ響きに私たちは耳を傾けます
あなたの子らすべての気高い賛美の歌声に
善き御力持つ者らにこよなく庇護され
何が来ようと心安んじて私たちは待とう
夜も朝も私たちのかたえに神はつねにある
そしてまちがいなくどの新しい日にも
(横手多佳子「殉教者ディートリヒ・ボンヘッファーにおける讃美歌と詩篇」)
ボンヘッファーはフロッセンビュルク強制収容所に収容されていました。人間の目では希望のかけらも見えない空っぽの暗闇に、自分の紡ぐ言葉が粉々に崩れてしまうような不安と絶望を味わっていたことでしょう。
しかし、「祈り」には力があるのです。
祈るとき、失意で曇ったボンヘッファーの目の前には、再現されたのではないかと思うのです。神の栄光と支配のもとで、当たり前のように思っていた毎日の生活、そして、世界が再び生き生きと響き合う光景が。いつ処刑されるかもわからないどん底にあったボンヘッファー。一九四五年四月九日に、とうとう処刑されてしまった彼が、これだけ希望と光に満ちた詩を書いた。そのことは、「祈り」が持つ力を雄弁に物語っているのではないでしょうか。
彼の祈りをもって今日の授業はここで終わりにしましょう。 それではまた、次の講義で会いましょう。