自らの至らなさを自覚できるからこそ人間は偉大...現代世界の根源的理解を「神学」に学ぶ
■正直な気持ちを受け止めるキリスト教
教授: 旧約聖書に詩編という書物があります。読むと、詩編を書いた人々がいかに正直に、驚くほど正直に、自分の気持ちを神に打ち明けているのかがよくわかります。宗教改革者カルヴァンは詩編を「魂の解剖図」と呼んだほどです。もちろん、詩編113-118編や、146-150編のように、「ハレルヤ」というキリスト教の賛美の言葉がたくさん出てくる祈りも多数あります。しかし、もう一方では詩編22編のような祈りもあります。
22編は、イエス・キリストが十字架の上で死ぬ直前に叫んだ祈りです。
わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。
これは、願いでも感謝でもありませんよね。どちらかといえば、エレミヤの告白〔※編集部注:旧約聖書の「エレミヤ書」20章7-18節。「主よ、あなたがわたしを惑わし」にはじまり、苦しい人生の意味について、エレミヤは神に、「なぜ」「どうして」と問い続ける〕のような祈りです。叫びであり、怒りであり、悲しみであり、格闘であり、苦しみである。ありのままの表現です。
キリスト教ではこのような率直な祈りを神への不敬(ふけい)だと批難しません。そうではなく、神に真正面から誠実にぶつかる勇気と捉え、信仰の表現として尊重します。(略)
■どん底で綴られた希望の詩――ボンヘッファーの祈り
田村: 私は、ボンヘッファーの言葉を思い出しました。
「われわれは――《たとえ神がいなくとも》(etsi deus non daretur)――この世の中で生きなければならない。このことを認識することなしに誠実であることはできない。そして、まさにこのことを、われわれは――神のみ前で認識する! 神ご自身が、われわれを強いて、この認識にいたらせたもう」
教授: 第五講にも出てきたディートリヒ・ボンヘッファーはナチズムに抵抗して殉教したドイツの牧師であり、神学者ですね。せっかくボンヘッファーの名前が出ましたので、彼がつくった最後の讃美歌の歌詞を紹介しましょう。ドイツの讃美歌集の637番に、信仰・愛・希望の曲として収録されています。第二次世界大戦終結後、この詩には旋律がつけられ、現在では世界各地で歌いつがれています。私はこの詩が、ボンヘッファーの信仰と神学が結実した「祈り」に他ならないと思っています。