自らの至らなさを自覚できるからこそ人間は偉大...現代世界の根源的理解を「神学」に学ぶ
人間は質問する。
この事実が、人が他の動物と異なるところです。「ホモ・サピエンス(Homo Sapiens:賢い人)」ではなく、「ホモ・クァレンス(Homo Quaerens:尋ねる人)」ですね。神は祈りません。なぜなら全知だからです。動物は祈りません。なぜなら自分の存在意義について疑問を持たないからです。けれども人間は、自分の存在の根源について、その意味について問い続けます。
なにが私の存在の根源なのか。
なにが私の存在の意味なのか。
自らの存在、その根源、意味について、疑問を持ち、問い続ける。そういうユニークな生き物が人間です。
『パンセ』(Pensées)を書いたブレーズ・パスカル(Blaise Pascal:1623 -1662)は、人間の偉大さがどこにあるかということについて、「人間の偉大さは自分の惨めさを知る事。/人間の偉大さは自分の無知を知る事。/人間の偉大さは自分の罪深さを知る事」と言いました。
人は何でも知っているから偉いのではなく、逆に無知であることを自覚しているから偉いのだ。人間はきれいで道徳的に素晴らしいから偉い、のではなく、むしろ惨めで罪深いということを自覚しているからこそ偉いのだ、と。
これは言い換えると、「人間の偉大さは、自分の有限性を知っていることにある」と言えるのではないでしょうか。惨めさ、無知さ、罪深さ、といったものは、どれも人間の有限性を表しています。つまり、パスカルの言葉は「人間は有限な存在であることを知っているからこそ偉い」と言い換えられます。
では、なぜ人間がある種の弱さ、ネガティブな点である自らの有限性に気づくことは偉いのでしょうか。その理由は、そこにこそ、その有限性を乗り越える可能性が開かれているからです。
たとえば先ほど述べたように、問い続けるという行為も、その一つですね。そう考えると、祈りとは、まさに「自らの有限性の自覚」に由来するものである、と言えそうです。
自分の限界を知る存在である。
自分の限界を知っている。
だから人間は祈る。
私はそう思います。祈る生き物は人間しかない。「ホモ・オーランス(Homo Orans:祈る人)」です。祈りは人を人たらしめる本質の一つなのではないでしょうか。
つまり、祈りというのは、なにも、信仰者だけがするものではないのです。信仰のあるなしにかかわらず、自分の限界を知る者は祈りたいという気持ちになる。ですから、この世界で「祈り」という言葉がない言語はないそうです。(略)