政治家・菅義偉の「最大の強み」が今、五輪の強行と人心の離反を招く元凶に
An Exit Plan
菅氏を政治哲学なきマキャベリストだと批判する人もいる。2017年の加計学園疑惑の際に文部科学省が認めた内部文書を「怪文書」と言い放ち、直後に前文部科学事務次官のスキャンダルが新聞で報じられた。「目的のために手段を選ばない」手法も散見されるが、同時に「地方の庶民の暮らしを良くする」という政治理念は一貫してもいる。その相貌から真意は読み取れず、眼光に浮かぶ含意もまた読解困難である。
私は、09年に民主党政権が誕生した際に平野博文官房長官の秘書となり永田町で働き始めた。それから3年3カ月、今となっては「悪夢」とも称される民主党政権下で経験を積んだ後、13年から自民党の山口泰明衆議院議員、15年からは日本のこころを大切にする党の中野正志参議院議員(当時)の政策秘書を務めた。
18年に駐日デンマーク大使館の上席戦略担当官に転じるまでの8年半、「左」から「右」へ流れつつ、民主党とあまりにも違う自民党政治に驚愕したり感嘆したりしながらも、主に「政治とカネ」の問題に関心を持って永田町で働いてきた。
私が仕えた3人の共通点は、菅氏と同じ96年の総選挙で初当選したことだ。政治改革の一環として小選挙区比例代表並立制を初めて導入したこの総選挙は、300もの小選挙区を新設し多くの新人候補者にチャンスを与えた。その1人が菅氏だ。
自民党内で語り継がれる「菅伝説」
当選同期の中で菅氏が特に親交を深めたのが、山口泰明氏、中野正志氏、桜田義孝元五輪相、吉川貴盛元農水相であり、このうち2人がかつての私のボスだった。そこで私は数々の「菅伝説」を聞いた。それは、秋田県雄勝郡秋ノ宮村(現湯沢市)でイチゴ農家の長男として生まれたとか、高校卒業後に上京し、板橋区の段ボール工場で働くうちに一念発起し法政大学法学部政治学科に進学したといった、今では広く知られた話ではない。
むしろ、菅氏が国政進出後にどのようにして自民党内の「喧嘩の勝ち方」を覚えたかとか、政治的師匠である梶山静六元官房長官を98年の自民党総裁選で担いだ際にどのような「身の振り方」をしたのかといった生々しい話であったり、菅事務所の秘書は永田町で一番の激務をこなしつつもボスを敬愛しているとかといった舞台裏の逸話であったりした。
決してカリスマ的な存在感があるわけでもなく、また党人派にありがちな威圧感を売りにするタイプでもないが、「菅伝説」は自民党内で確かに語り継がれていた。