震災から10年「あの時、なぜ救えなかったのか」 遺族が抱き続ける悔悟と葛藤
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佐藤美香さんの長女・愛梨ちゃんは、震災後に幼稚園から乗ったスクールバスの中で命を落とした。写真は、亡くなった園児の慰霊碑の前に立つ佐藤さん。3月1日、宮城県石巻市で撮影(2021年 ロイター/Issei Kato)
「磨さん 薄よごれた軍手、そして穴のあいた靴。まだ温もりがあるような気がして...帰って来た時に俺の気に入りの靴どうしたんだれと大騒ぎされそうなので、そのまま玄関に磨かないで置いときます」(熊谷幸子さんから亡き夫への手紙。原文のまま)
ようやく潮が引いたとき、世界は一変していた。家もトラックもまるで子供のおもちゃのように押し流され、生存者たちは泥と瓦礫の中で行方知れずになった家族や友人を探し回っていた。
東日本大震災から10年、長い歳月を経ても、被災した人々の多くは自問を続けている。あの日から会えなくなった肉親や友人はいまどこにいるのか。愛する子供がなぜ変わり果てた姿で戻ってきたのか。答えのない疑問を抱えたまま、時の経過では癒やせない深い悲しみに閉じ込められたままの人も少なくない。
今も受け入れがたい現実
岩手県陸前高田市。桜並木の私道の先で1人暮らしをしている佐々木善仁さんは、失った家族への自責の念を今も持ち続けている。
津波が押し寄せる中、妻のみき子さんは、当時28歳だった引きこもり状態の次男、仁也さんを必死で自宅から避難させようとした。しかし、仁也さんは家に閉じこもり、ついには波にのまれた。みき子さんもその後、濁流の中で命を落とした。
自分がもっと家族の問題に向き合い、妻や次男をしっかりと支えていれば、2人の運命は変わっていたかもしれない。70歳になった今、佐々木さんは、家族を苦しめた引きこもりに関する本を読み漁っている。
宮城県石巻市。佐藤美香さん(46)の時間はあの日で止まったままだ。6歳だった娘の愛梨ちゃんは幼稚園のバスの中で亡くなった。津波の後、暗闇の中から助けを求める子どもたちの声がはっきりと聞こえていたという。
陸前高田市の熊谷幸子さんは、夫の磨(みがく)さんがいつか戻ってくると信じていた。カレンダーの裏に磨さんへの伝言を書き、家に帰ってくれるよう伝える。夫からの返事を自分で考えて書くこともあった。受け入れがたい現実を変えることはできないが、そうすることで少しでも2人の時間を感じることができた。
荒波の中で聞こえた妻の叫び
大震災による地震と津波は東北の太平洋岸を中心に2万人近くの死者を出した。津波で冷却システムが停止した東京電力福島第一原子力発電所では、3基の原子炉でメルトダウン(炉心溶融)が起き、近隣に深刻な放射能汚染が広がって10万人以上の住民が避難を余儀なくされた。
被災住民や地域の復興に向けて、国が投じてきた復興資金は約31兆円に上る。しかし、どれほど大きな投資によっても、震災が人々の心に残した傷は消えようがない。
陸前高田市ではおよそ2万4000人の住民のうち、1700人を超す人々が犠牲になった。震災後、将来の津波から住民を守る対策として、高さ12.5メートルの防潮堤が全長約2キロにわたって海岸線に建設された。
3月の寒い夜、強風があおる激しい波の音が防潮堤によってかき消され、海の存在は消えていた。要塞のようなコンクリートの壁が、海とともに暮らし、栄えてきた町と海との融和を阻んでいる。
佐々木善仁さんの家は玄関から海が見える距離にある。しかし、好きだった釣りや海辺の散歩を今はほとんどすることがない。妻と息子2人と暮らしていた旧家が津波で流されたため、現在の家に引っ越してきてからのことだ。