震災から10年「あの時、なぜ救えなかったのか」 遺族が抱き続ける悔悟と葛藤
震災発生の日、定年まであと数週間と迫った佐々木さんは、当時住んでいた自宅から車で30分ほどの漁村・広田の高台に建てられた小学校で校長として勤務していた。激しい揺れと津波の情報を受け、佐々木さんはまず全校の生徒を避難させた。
何より心配になったのは、引きこもりが10年も続いていた次男の仁也さんに最悪の事態が起きているのでないかということだった。ここ2年間は、仁也さんは家から一歩も出ず、外部との接触を拒んでいた。
「女房だけは助かったかもしれないな、と思っていました。避難所に行った時に『取り乱している女性はいないか』と聞いたんです」と、佐々木さんは静かな口調で語った。次男に何かが起き、妻が動揺しているのではないか、とその時は考えた。
しかし、みき子さんの姿は避難所にはなく、翌月遺体で見つかった。57歳だった。
津波が押し寄せてくる中、「他の人には会いたくない」と言っていた仁也さんをみき子さんはぎりぎりまで説得していたらしい。しかし、それもかなわず、みき子さんは長男の陽一さんと一緒に隣の家の屋根に逃れ、自宅が波にのみ込まれていく状況を目の当たりにしたという。
佐々木さんは眼鏡を外し、テーブルにある新聞の切り抜きを手にし始めた。部屋には段ボール箱が山積みされていた。昨年12月、40歳で結婚することになった陽一さんが家を離れるときに残していったものだ。
震災後、佐々木さんと陽一さんは一緒に暮らしていたが、津波の日のことを話すことはなかった。2人がようやく当時の記憶を語り合ったのはほんの数カ月前、陽一さんが引っ越しの準備をしていた時だった。
「息子が引っ越すから。もう聞けるチャンスがないと思って、(女房が)最後何を言ったのか聞いたんです 」と佐々木さんは語り始めた。
陽一さんが最後に見たみき子さんは荒波の中で瓦礫にしがみつき、叫び続けていたという。「お母さんが(自分に)生きろーって言っていた」という陽一さんの言葉が胸に突き刺さった。
津波の後、佐々木さんは亡くなった仁也さんが陥った引きこもりに関する本を何十冊も買った。苦しむ息子に自分がなぜもっと声をかけなかったのか。仁也さんを理解しようと格闘していたみき子さんをなぜもっと支えてこなかったのか。そういう自分を、長男の陽一さんが今でも責めているのではないか。
佐々木さんは独り言のようにそれを繰り返した。
「そういうことを忘れようといったって、忘れられない。逆にどんどん鮮明になっていく。時間が解決するというのはうそだろうね」
震災前、妻のみき子さんは引きこもりの子供を持つ親の会を立ち上げ、佐々木さんには退職したら手伝って欲しいと話していたという。
佐々木さんは今、みき子さんへの感謝と償いの気持ちを込めて毎月その会を主宰している。震災後、書き始めた引きこもりについてのニュースレターは50号近くになった。
真実求めた裁判に冷たい視線
石巻市で亡くなった被災者は3200人余りに及ぶ。佐藤美香さんの娘、愛梨ちゃんもその1人だ。妹と遊ぶのが大好きで、大きくなったらテレビのアナウンサーになりたいと夢を語っていた女の子だった。
震災発生時、愛梨ちゃんは地元の幼稚園にいた。その直後、園側は愛梨ちゃんら5人の園児をバスに乗せ、丘を下って海岸方面に向かった。
震災後の混乱の中、愛梨ちゃんの捜索は自分たちの力に頼るしかなかった。3日後、他の保護者とともに瓦礫の中を歩くと、合板や金属の破片の間で薄い煙がくすぶり、家の屋根の下で焼け焦げた黄色のスクールバスを見つけた。その中に、愛梨ちゃんの痛々しい姿があった。
佐藤さんは瓦礫の中から自分の手で愛梨ちゃんを抱き上げ、高台に運んだ。
「赤ちゃんぐらいの大きさになってしまっていて、もう、風が吹いただけでも壊れてしまう、飛ばされてしまいそうだった」と佐藤さんは娘を抱くように腕を組んだ。
「(津波が起きた日の)夜中の12時ごろまで、助けて、助けてという声が聞こえていた証言があって。ひょっとしたら子供たちは(津波の後も)生きてたのではないか」と佐藤さんは考えている。