震災から10年「あの時、なぜ救えなかったのか」 遺族が抱き続ける悔悟と葛藤
震災の5カ月後、佐藤さんら4人の園児の家族が幼稚園側を訴えた。2014年、佐藤さんら原告団は幼稚園側と和解。佐藤さんら原告側の鎌田健司弁護士によれば、園側は法的責任を認め、合計6000万円の和解金支払いとともに、遺族に「心からの謝罪」を約束した。
しかし、幼稚園側から毎年、花束は届いているものの、謝罪の言葉を受け取ったことはないと佐藤さんは言う。
この幼稚園は現在、閉園している。同園側の弁護士は、ロイターの取材に対し、同園が毎年、犠牲者の家族に慰霊の花束を送っていると説明。しかし、この訴訟で佐藤さんら原告側と和解した内容も含め、詳しいコメントは控えると話している。
佐藤さんは「裁判で真実がわかるものだと思っていたんです」と言う。しかし、佐藤さんによれば、園の職員は法廷で「地震の日に津波のサイレンは聞こえなかった」と繰り返した。「自分たちと思っていたのと全然違って、真実は分からないままです」
ため息をつきながら、佐藤さんは娘を見つけた場所に近い慰霊碑まで歩いた。マスクを外し、石に刻まれた愛梨ちゃんの名前に触れた。愛梨ちゃんの焦げ付いた小さな靴とクレヨン箱は、今は近くにある震災記念館に展示されている。
「怒りが収まらない」 。佐藤さんは内気な自分として、このような裁判で世間の注目を集めるような立場になるとは思わなかった。「私たちの大切な娘が亡くなり、その事実が・・・」と言いかけた時、 地元の男性が佐藤さんをテレビのインタビューで見たと話しかけてきた。
「(裁判で)3億くらいもらったんでしょ?」。男性の言葉は辛辣(しんらつ)だった。
「いえ、違います」と答えた佐藤さんに、男性はさらにたたみかけた。「みんな大変だったんだからね。もういいでしょう」。男性は訴訟になったことを憤るかのようにつぶやき、去っていった。
佐藤さんたちに対して、応援する声は多かったが、心無い意見もしばしば耳にした。
「もう慣れてしまった」と佐藤さんは悲しそうに言いながら、停めていた車に戻っていった。「心ないことを言う人もいるけど、わからない人には何を言ってもわからない 」
娘に起きたことを二度とほかの子供たちに繰り返してはならない。そんな気持ちから、佐藤さんはいま悲惨な思い出を防災意識の向上に役立てる地域活動に尽力している。
「アイリンブループロジェクト」。佐藤さんは愛梨ちゃんが見つかった場所に咲いた白い花を「あいりちゃん」と名づけ、ボランティアらとともに、各地の学校などに同じ花を植えてきた。
咲き広がる花を見た子供や大人たちに防災の大切さを思い起こして欲しいという気持ちからだ。水色が好きだった愛梨ちゃんの思いを込め、プロジェクト名には「ブルー」を添えた。
石巻の被災地を訪れる人々には、自らの体験と震災の恐ろしさを伝える「語り部」となる。佐藤さんが今も携えている愛梨ちゃんの通園バスの時刻表が、声なきメッセージとして人々の心を打つ。
本になった夫への手紙
「磨さん、皆、復興 復興と目標をもって頑張ってるけど、私は何を目標にして生きれば良いの...早く元の姿で無くて良いから出て来て下さい...この大震災、人生をメチャクチャにして、あまりにも酷い酷すぎる。悪いこと何ひとつしてなかったのに! 幸子」(熊谷幸子さんから磨さんへの手紙)
東北地方では、いまだに2500人以上が行方不明になっているが、安否の確認や遺骨の捜索は困難を極めている。
岩手県では、不明者を探し続けている家族のために、各地の警察が毎月、商店街や公民館などで説明会を開いている。警察が行方不明者の身元を確認し、必要に応じて家族からDNAサンプルを採取する。
津波から3カ月後、同市の熊谷幸子さんは、震災当日、自宅を出たまま行方不明になった夫の磨さんに手紙を書き始めた。手紙は天気や朝食の説明から始まり、磨さんの居場所を尋ねる質問が散りばめられている。その数は200通以上になり、幸子さん自身が磨さんになって書いた答えもある。
「ままちゃん、くよくよしたって俺はもう戻れない。いつ迄も待ってるから頑張れ頑張れ(磨)」