「おじいちゃん、明日までもたない」手話で伝える僕の指先を母はじっと見つめていた
粗暴なヤクザ者
祖父とのコミュニケーション方法がわからない。
これは祖父が危篤になってしまったからではなく、昔からそうだった。
若い頃にヤクザをしていた祖父は、とても気性が荒く、孫のぼくに対しても暴言を吐いたり、ときには物を投げつけたりするような人だった。
小学生の頃、祖父への反発心を募らせていたぼくは、一度、泥酔した彼と大喧嘩をしたことがある。理由はもう覚えていないけれど、些細なことだったと思う。
火がついてしまった祖父は、台所から包丁を持ち出してきた。殺気だった目とともに、それをぼくに向ける。でも、ぼくは怯みつつも睨み返した。
すると、慌てた父が、ぼくと祖父の間に入った。母や祖母は「やめて!」と叫んでいた。
どれくらい睨み合っていただろうか。祖父は包丁を畳に突き刺すと、その場で胡座をかいた。そして、大声をあげた。
「俺を馬鹿にすんじゃねぇぞ!」
母になだめられ祖父が床に就くと、ぼくは祖母からこっぴどく叱られた。
「おじいちゃんのこと、絶対に怒らせちゃだめなの! わかった?」
だから、ぼくは、祖父のことがどうしても好きになれなかった。同じ屋根の下に住んでいても、笑顔で会話したことがほとんどない。なんのきっかけで逆鱗(げきりん)に触れてしまうのか、どのタイミングで激昂するのかがわからなかったため、側にいるのが苦痛だったのだ。
おそらく、ぼくがそう感じていることに祖父自身も気づいていただろう。彼から歩み寄ってくるようなこともなかった。
いつの間にか、ぼくと祖父との間には共通言語がなくなっていた。
いまさら祖父にどう話しかけたらいいのか、わからなかった。
「ちょっと、ごめんね」
誰に向けてかわからないけれど、一応断りを入れて、ぼくは祖父の側を離れた。そのまま部屋の隅に座っていた母の側に立つ。
よく見ると、母はぼくが実家に残していったTシャツを着ていた。学生時代に散々着倒して、処分しようとしたら、部屋着にするから頂戴と言われたものだ。柔らかくウェーブした母の髪と、派手なプリントのTシャツがミスマッチで、ここが病室じゃなかったら笑っていたかもしれない。
その目を見つめると、母は弱々しく微笑みながら手を動かした。
――東京からここまで、疲れたでしょう。
――ううん、大丈夫。
こんなときでさえ、母はぼくの心配ばかりする。
――それよりも、おじいちゃん、どうなの?
尋ねてみると、母は「わからないの」と首を振った。
父親が危篤なのに、状況がわからない。そんなことって......と戸惑っていると、隣に座っていた祖母がぼくの服を引っ張った。
「大ちゃん、帰ってきたのか」
「うん。おばあちゃん、ただいま」
祖母の前にしゃがみ込んで挨拶する。その瞳が一瞬さまよったかと思うと、ぼくを捉える。そうしてぼくをあらためて認識すると、祖母はうれしそうに顔を皺くちゃにしてみせた。
ぼくは祖母の手を握りしめ、目をじっと見つめて訊いた。
「おばあちゃん、おじいちゃんの具合、どうなの?」
「おじいちゃん......。大丈夫よ」
どう考えても、大丈夫な状況ではなかった。でも、母も祖母も、この事態をうまく理解できていないみたいだった。
背後から由美の声がした。
「おじいちゃんね、明日までもつかどうかギリギリなんだって」
「そうなんだ......」
「でも、大ちゃんのお母さんにもおばあちゃんにも、いまさら説明したってしょうがないでしょう。可哀想だし、混乱させてもね」
一体なにが可哀想なのだろう。
これまでずっと一緒に暮らしてきた夫の、父親の置かれている状況を理解できていないことのほうがよほど不幸ではないか。百歩譲って、認知症が進んでいる祖母は仕方ないかもしれない。けれど、母は違う。音声言語でのコミュニケーションが難しいだけで、手話を使えばどんなことだって理解できる。
ぼくの家族は誰も手話が使えなかった。聴こえない父と母の言語である手話を、誰も覚えようとしなかった。祖母も祖父も、ふたりの伯母も。唯一、家族のなかでぼくだけが下手くそなりにも手話を自然に習得し、両親と「会話」していた。
ぼくは母と父の目の前でゆっくり手を動かした。
――おじいちゃん、明日までもたないかもしれないって。
伯母たちから聞いた情報を、手話で「通訳」する。
拙く動くぼくの指先を、母はじっと見つめていた。
<『しくじり家族』抜粋第1回:「ふつうじゃない」家族に生まれた僕は、いつしか「ふつう」を擬態するようになっていた>
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