新自由主義が蝕んだ「社会」の蘇らせ方
“COMMON” CAN WIPE OUT NEOLIBS
実際、欧州では自然寡占的な事業に新自由主義的な競争はそぐわないという反省があり、既に「再公営化」の潮流が起きていた(例えば水道については岸本聡子『水道、再び公営化!』〔集英社〕を参照)。それが全世界と日本に波及することは間違いない。例えば経営難に陥った航空会社に公的資金が投入され再公営化されるなどは十分にあり得る。
では、国民国家を単位とする福祉国家に回帰すればそれでいいのか。問題はそう単純ではない。2008年の金融危機において、アメリカ政府が持ち家を失った人々ではなく「破綻させるには大き過ぎる(トゥ・ビッグ・トゥ・フェイル)」金融機関を救済したように、政府は持てる者のみを救い、新自由主義の秩序を延命させようとするかもしれない。
このように、国家は、新自由主義を推進するための装置になり果ててしまった。福祉シフトや再公営化は、確かに必要なものではある。だが、個人の選択と競争を強調し、小さな政府を唱えてきた新自由主義は、国民国家という共同体を単位として社会や公共性を考える回路をむしばんできた。私たちがコロナ以後を生きるためには、そういった想像の回路を根本から作り替えるという挑戦が待ち受けているのだ。
国家より大きな「社会」
その挑戦に当たって、私は「公共性」と「コモン」との区別が役立つと考えている。「公共性」には対応する英語の名詞が実はない。せいぜいpublic sphere(公共圏)である。それに対してcommon(s) には共有地、共有のものという名詞の意味があるし、community(共同社会)との連想が色濃い。パブリック≒公共なものは、言語やメディアを媒介にした非物質的な空間というニュアンスが強いのに対して、コモンにはより物質的な、生存のために人間が共有するもの、という含意がある。
今年日本で公開された米映画『パブリック 図書館の奇跡』は、この差異をよく表現している。大寒波で命の危険にさらされたホームレスたちが公立図書館を占拠するこの映画は、言語の集積庫=パブリックなものとしての図書館を、命を守る物質的シェルター=コモンとして奪い取っていく物語だ。
ただしパブリックとコモンには、重なり合う部分もある。ナショナリズム論の古典『想像の共同体』のベネディクト・アンダーソンによれば、国民国家は新聞などのメディアを介した国民の想像を基盤としている。それはここでいうパブリックなものである。ただしその一方で、国民国家は共有(コモン)の物質的資源を効率よく維持管理していくための共同体でもあるだろう。問題はどこに力点を置き、どのような共同体を共有のための単位とするか、ということだ。