新自由主義が蝕んだ「社会」の蘇らせ方
“COMMON” CAN WIPE OUT NEOLIBS
ILLUSTRATION BY TUR-ILLUSTRATION/SHUTTERSTOCK
<ボリス・ジョンソンや小池百合子などがコロナ禍を機に福祉重視へと舵を切るなど、新自由主義は変更を迫られつつある。だが「社会」を立て直すにはさらなる一手が必要だ。本誌「コロナと脱グローバル化 11の予測」特集より>
今回の新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)は、1980年代以来、小さな政府と市場の自由、個人の選択と自己責任を強調して世界を席巻してきた新自由主義に、二重の意味で大きな変更を迫っている。
1つは、感染症の拡大を防ぐために国家の役割が重要になったということだ。例えばボリス・ジョンソン英首相が新型コロナ感染症に罹患し、生還しながら、「社会というものはある」「NHS(イギリスの医療制度)に命を救われた」と述べたことは象徴的だ。ジョンソンは、80年代に新自由主義を開始したマーガレット・サッチャーの有名なせりふ「社会などというものは存在しません」をもじってサッチャーの新自由主義宣言をひっくり返し、福祉国家イギリスの象徴NHSを称賛することで、「福祉シフト」とでも呼べる姿勢を表明したのだ。
だが、それまでのジョンソンと彼の保守党の政治を知る者はこれを聞いて鼻白んだ。ここ10年間「緊縮政策」という名の福祉カット政策を堅持してNHSを骨抜きにしてきたのはほかならぬ保守党だったのだから。
同じ傾向は日本の政治家にも見いだせる。存在感を失っていた東京都知事の小池百合子は、国に先んじて休業補償を打ち出したあたりから人気を回復し、7月の都知事選で圧倒的な2選を果たした。元大阪府知事・大阪市長の橋下徹は、自らが「改革を断行」して「疲弊させ」た医療現場について、「見直しをよろしくお願いします」などとSNSで発信した。新自由主義路線で鳴らしてきた政治家たちが、突然の福祉シフトを行っている。
これらの政治家は、ポピュリストとして正しく世相を嗅ぎ取っているのかもしれない。コロナ禍で国家と福祉の役割が急拡大したのは事実である。その限りにおいて福祉シフトは確かに必要なのだ。
福祉国家への回帰は困難
新自由主義はもう1つの意味でも変更を迫られている。それはグローバリゼーションの退潮だ。新自由主義とはグローバリゼーションの国レベルでの応答である。人と財の国境に縛られない流通、国の規制にとらわれない金融活動を本体とするグローバリゼーションは、各国レベルでの「規制緩和」を必要とし、推進してきた。ところが今回のパンデミックは、グローバリゼーションの要である人と財の流通を決定的に阻害してしまった。それに対応する新自由主義もまた、これまでどおりではいられないだろう。