アルモドバル70歳にして語り得た珠玉の物語
His Most Personal Movie
――他人の人生から借りたものもあると、先ほど言った。サルバドールはアルベルトに自伝的な脚本を渡して演じさせるが、その際「これはおまえの話としてやれ」という条件をつける。あれはなぜ?
最初のうち、サルバドールにはアルベルトにこの芝居をやらせる気などなかった。実際、当初はアルベルトがサルバドールの脚本を盗み読みして、勝手に一人芝居にする設定にしていた。
しかし台本を練り直していくうちに、2人の間に合意があったほうがいいと思うようになった。それでも内容が内容なので、つまり性的なことに関わる話なので、サルバドールは自分の名前を隠したがった。そういう設定に変えた。
実際には、彼はヘロインが欲しくてアルベルトに再び会う。そしてクレジットに自分の名前を入れないことを条件に、一人芝居の上演を許した。
ところがこの芝居が橋渡し役になって、サルバドールは元恋人のフェデリコとも会うことになり、彼に自分の過去を知られてしまう。もともとフェデリコにだけは見られたくないという気持ちがあったのにね。
つまり私が言いたいのは、劇場は記憶の保管所であるだけでなく、人を結び付ける場所だということ。脚本家と観客を、人と人を結び付ける。
――だからあなたの作品には頻繁に、必ずと言っていいほど、作中人物が演劇やダンスを見たり歌を聴いたりするシーンが出てくるのか。
そうだ。映画もたくさん出てくる。登場人物はしょっちゅうテレビや劇場で映画を見ているし、映画館や劇場に出掛けていく。彼らの人生にとっては、それがとても大事だ。
例えば『トーク・トゥ・ハー』(2002年)は、ピナ・バウシュの『カフェ・ミュラー』の舞台から始まる。大事なのは、その感動的な踊りを2人の男が見ていること。そして涙を流しているのは1人だけで、片方は相手が泣くのを不思議に思う。泣かないほうの男は昏睡状態にある元バレリーナを担当する看護師で、バレエを見て、バレエの話を彼女にすることだけが目的だった。
映画やダンスだけでなく、自分の身近にある美術品や絵画、それも人生の最も意味ある瞬間のシンボルとなるものを使うこともある。単なる装飾や称賛のためではない。私の映画には欠かせないと思うからだ。
芸術家や作家、監督、俳優、ダンサーなどにも興味がある。私が引かれるのは創造の源泉、創造する者、そして欲望。この3つの絡み合いだ。
――今度の作品にはその全てが詰まっている。
そのとおりだ。
――この作品は『欲望の法則』(1987年)と『バッド・エデュケーション』(2004年)と並ぶ「意図せざる」3部作になったと、あなたは語っている。一連の作品では、細かなシーンや筋立ての繰り返しが多い。例えば登場人物の体が水にぬれると、直後に何かがひらめいたり、赤い服を着ると大変な出来事が起きたりする。
『抱擁のかけら』(09年)では劇中映画として、『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(1988 年)と似たストーリーのコメディーが制作される。ここまでの反復が必要なのか、と思う人も多いのではないか。あなたにとっては自然なことなのだろうが。
表現が同じでない限り、私には全く気にならない。絵画ではよくあることだろう。画家は同じ主題の作品を何度も描くが、それは繰り返しではない。表現方法を磨き、対象により深く迫ろうとするからだ。
一方で現実的な理由もある。確かに『抱擁のかけら』は、『神経衰弱ぎりぎりの女たち』のモチーフを拝借している。『抱擁のかけら』で女優志願のクルスが演じるヒロインのドラマチックでつらい実生活と、女優として演じなければならないコメディーとのコントラストを出したかったからだ。全く新しいコメディー映画を考え出すより、昔のものを使うほうが簡単だったということもあるし。
無意識の反復もあるかな。今度の作品も、最初は『欲望の法則』『バッド・エデュケーション』と合わせて3部作を成す内容とは思っていなかった。しかしサルバドール少年が聖歌隊のオーディションを受ける場面は『バッド・エデュケーション』に重なる。そのままはめ込んでもいいほどだ。
それから、信心深い黒衣の女がサルバドールの母親に「息子さんを神に委ねなさい」と告げるシーン。奨学金を出すから神学校に入れなさいという意味だが、これも『バッド・エデュケーション』に通じる。
サルバドールが執筆してアルベルトに演じさせる自伝的戯曲『依存』は、完全に『欲望の法則』の世界。あの時代と、あのキャラクターのものだ。
書いているときはあまり意識しなかったが、この3本には共通点が多い。まず、主人公はみな映画監督だ。描かれる欲望は創造と密接に結び付き、それぞれ違った結果を招く。そして、私の人生のさまざまな時代がモチーフになっている。