明治時代の日本では9割近くが兵役を免れた──日本における徴兵制(2)
政府は徴兵令制定以降、法改正を通して分家や養子縁組を防ぐ対症療法を続けたが、戸籍操作による兵役逃れは、昭和以前の最後の徴兵令大改正といわれる明治二二年の改正が「廃疾」「不具」を除き免役・猶予条項を全廃し、徴集延期を家族の生計が維持できない場合などに限定するまで続いた。
だからといって、もちろん即全員が兵となったわけではない。政府の側から見ても、財政的制約などから見て大量の兵員を養えるわけではないし、またその必要性が希薄な場合もある。歴史学者の加藤陽子が指摘するように、明治期の日本では二〇歳男子人口に比して実際の徴集人員の割合は非常に少なく、日清戦争の明治二七年ですら五%にすぎなかった(『徴兵制と近代日本』)。根こそぎの動員が発生するのは昭和の戦争の時代に入ってからのことである。つまり、誰が兵役義務を持つのかという問題と、誰が実際に軍務を担うのかという問題は、クロスしつつも別個に存在していた。
立憲政体と徴兵制
兵役逃れが大きな問題として浮上していたころ、そもそも兵役義務や国のために戦う義務はどのようにして発生するのか、政府が国民にそれを押しつけることは可能なのかという疑問が、徐々に芽生えてきた。
その発信源のひとつが、自由民権運動である。高知の民権結社立志社は、明治一〇年の国会開設を求める建白書のなかで、徴兵制を導入して国民に「血税」負担を求めるからには専制政治をやめて「立憲ノ政体」を樹立すべきと説いた。
彼らによれば、本来、徴兵制は「良制」である。だが、それは「立憲ノ政体」で施行されるからであって、専制政府の下ではそうではない。専制政府は一方的かつ強圧的に国民に負担を押しつけるだけなので、国民にとって国事はしょせん他人事であり続ける。
だが「立憲ノ政体」では、参政権を持つ国民が議会を通して政府とともに国是の確定を行い、定められた租税を負担し、「護国ノ責」を自発的に負担することになる。みずからが参画して作り上げた国の幸福と安全を守るために国民は兵役義務を負うのであって、一方的な徴発は徴兵制の真の姿ではない。徴兵制を続けるのならば、国会の開設が必要だ。彼らはそう訴えた。