明治時代の日本では9割近くが兵役を免れた──日本における徴兵制(2)
参政権と兵役義務を関連づけて捉える思考は、政府の近辺にも浸透していった。明治一二年の徴兵令改正は、政府の議法機関である元老院が政府原案の可否について審議し、修正を行った。そのなかで、国民徴発宣言にすぎない第一条の「徴兵ハ国民ノ年甫メテ二十歳ニ至ル者ヲ徴シ」という文言を根本的に改めて「徴兵ハ全国ノ男子護国ノ義務ヲ帯ル者ヲ徴集シ」とする動きが起こった。修正案の提出者は、津田出、山田顕義、佐野常民、細川潤次郎、中島信行といった面々である。
それは次のような意図を持つ。第一に、徴兵は上からの一方的徴発ではなく国民の「護国ノ義務」に基づくものであり、忌避は許されないことを明らかにする。国民が兵役義務を持つことを周知徹底するというのは、山縣有朋の方針でもあった。
第二に、「護国ノ義務ヲ帯ル者」を徴集すると明記することで、義務を持たない者が存在することを明らかにする。現実に老人や子供、検査不合格者は兵役を免れており、徴兵令そのものがザル法であった。そのことを明示して「血税」におびえる国民を安心させようとしたのである。
ところが、この修正案は賛成九反対一〇の一票差で葬り去られてしまう。有力な反対意見は、河野敏鎌、柳原前光らによって唱えられた。それは「護国ノ義務」は憲法制定によってはじめて定まるので、憲法がない状態で徴兵令にそれを明記するのは不適当、というものである。
この場合の憲法とは、当時元老院が天皇から命じられて起草した憲法草案がイメージされている。元老院憲法草案には、国民から選ばれた「代議士院」の存在が明記されており、天皇と立法権を分有し、ともに憲法を遵守する約を結ぶ機関として位置づけられていた。ということは、元老院の河野や柳原にとって、憲法上の兵役義務は、国民から選ばれた「代議士院」があってはじめて具体化するということになる。当時の元老院には民権派系の書記官も在籍しており、河野、柳原は民権派に近い議官と目されていた。
このことは、立志社建白以来、民権派のなかにあった立憲政体と徴兵制、もしくは参政権と兵役義務の不可分性という問題意識を、現実の憲法起草や徴兵令改正に反映させようとする動きが微弱ながら存在していたことを意味する。