「シリア革命」発祥の地の報道されない惨状と、越境攻撃するイスラエルの狙い
南西部で起きている惨状
南西部の戦況は、2017年5月にロシア、トルコ、イランが同地を含む各所を緊張緩和地帯に設置して以降しばらく膠着した。だが、2018年4月から5月にかけて、ダマスカス郊外県、ヒムス県北部、ハマー県南部の反体制派を降伏させたシリア政府は、南西部の奪還に本腰を入れるようになった。シリア軍は6月19日、ロシア軍や「イランの部隊」(後述)とともに大規模な掃討作戦を開始したのである。
反体制派は徹底抵抗を試みた。「堅固な建造物」作戦司令室を含む7つの作戦司令室は6月20日、南部中央作戦室の名で統合し、戦闘を継続した。しかし、この動きは、アレッポ市東部地区で抵抗を続けてきた反体制諸派が同地陥落(2016年12月)直前にアレッポ軍を結成したのに似ていた。アル=カーイダの系譜を汲む武装集団とフリーダム・ファイターを自認する自由シリア軍諸派を混濁させ、「テロとの戦い」を主唱するシリア軍の攻撃に正当性を付与するだけだったからだ。
しかも、徹底抗戦の是非をめぐって、反体制派内でも意見が割れた。勝機がないと悟った戦闘員、活動家、地元名士は、停戦に応じていった。彼らの屈服を陰に陽に後押ししたのは、人道の名のもとに武器兵站支援を行い、避難場所を提供してきた米国とヨルダンだった。
ドナルド・トランプ政権発足以降、シリア情勢への関心を低下させ、アル=カーイダと共闘する反体制派との関係を解消した米国は6月24日、反体制派に「あなた方は我々の軍事介入を想定、期待して決定を下すべきでない」と文書で通達し、彼らを完全に切り捨てた。一方、65万人以上ものシリア難民を抱え、経済、安全保障の両面で負担を強いられてきたヨルダンは、2017年末頃から、反体制派にナスィーブ国境通行所(ダルアー県)をシリア政府に引き渡すよう求めるようになっていた。シリア政府と関係を修復し、難民を帰還させる経路を確保するのがその狙いだった。南西部で戦闘が激化すると、同国は国境を封鎖し、避難してきた住民と反体制派の入国を阻止した。
欧米諸国、アラブ湾岸諸国、そしてトルコは、シリア・ロシア両軍の容赦のない攻撃に無関心を装った。これらの国のメディアも、南西部の惨状を報じることはほとんどなかった。
行き場を失った反体制派はなす術を失い、7月6日にはUNESCO(国連教育科学文化機関)世界文化遺産のローマ劇場を擁するブスラー・シャーム市、7日にはナスィーブ国境通行所、9日にはダルアー県のヨルダン国境全域、そして12日にはダルアー市中心街をシリア軍に明け渡した。
シリアの主要メディアは、解放を祝う市民の映像を連日配信した。独裁への忠誠を強要されているだけ――市民の歓喜をそう解釈することも可能だろう。だが、彼らの多くは、反体制派支配地域の無政府状態のなかで、自由と尊厳を享受しているフリをする一方、公務員のなかには、定期的にシリア政府から給与を受け取り続ける者もいた。市民は紛争における最大の被害者だが、同時に賢く、また強くもある。
英国を拠点とする反体制NGOのシリア人権監視団は、ダルアー市が陥落するまでの約20日間で住民130人以上が死亡し、30万人近くがヨルダン国境地帯に避難したと発表した。だが、シリア軍に対する非難の声が盛り上がりを欠くなか、お茶を濁すかのように、避難民のほとんどがシリア政府によって制圧された町や村に帰還したと追加発表した。