「歴史」とは、「記憶」とは何か(コロンビア大学特別講義・後編)
過去の教訓を妨げる限界とは
【グラック教授】 では、なぜ戦争の物語が国民の物語であることが問題なのでしょうか。それに何が欠けていると感じますか。
【ニック】 共通の記憶だけを覚えていては、歴史的な文脈が示す全ての教訓に目を向けられるとは限らないから。
【グラック教授】 そうですね。歴史が示す教訓を学ばないと、どうなるでしょうか?
【ニック】 また同じことをします(笑)。
【グラック教授】 そのとおり、また同じことをする。言い換えると、何が起きたのか、その結果どうなったのか、という疑問を持たないと過去から学んだことにはなりません。はい、質問でしょうか?
【ヒョンスー】 つまりこれは、歴史と記憶が矛盾している、という話だと思います。記憶は歴史から学ぶことを妨げると。もう1つ記憶について問題があるとすれば、ある記憶が国民の記憶となったとき、その記憶は他のアイデンティティーを持った人々の声を塞いでしまうのではないでしょうか。例えば、ハワイにいる日系人の声などを。
【グラック教授】 なるほど。そうですね。それぞれの国がそれぞれの戦争の物語を語ることの、何が問題なのでしょうか。東アジアで、なぜ今、戦争の記憶がこれほど政治問題になっているのでしょうか。
【ディラン】 現在の出来事と結び付けられているからですか?
【グラック教授】 どのように結び付けられている?
【ディラン】 例えば日本のケースでは、自虐史観という考えがあって、政治家たちは歴史の詳細は伏せておきたいと思っているようです。国民の戦争に対する態度を変えてしまうかもしれないから。
【グラック教授】 自虐史観というのは96年から歴史修正主義者が言っていることですが、彼らの立場はどんなものですか。彼らが特に重視しているのは何でしょうか。
【ディラン】 彼らが重視しているのは、国家の威信と日本の歴史における自尊心だと思います。
【グラック教授】 まさにそのとおり。つまり国民の記憶を語るとき、現在の出来事がナショナリズムに結び付けられるケースが多々あります。各島の領有権をめぐる現在の論争も、その例の1つです。ナショナリズムや国家の威信、国民の物語というのは、国内で問題になるだけではなく、国家間で問題になってくるのです。日韓や日中などにおける「歴史問題」という摩擦は、その典型的な例です。
【スペンサー】 一番問題なのは、記憶があたかも歴史であるかのように装っていることだと思います。現在、アジアの政治家たちはそれぞれ「これが歴史だ、これが起きたことだ」と言っているけれど、それはたいてい記憶なのではないでしょうか。
【グラック教授】 それは記憶が歴史を凌駕しているケースだと言えるでしょう。そして、それが政治家やマスメディアの口から語られると、何が生まれるか。戦争についてあまり知らない人たちの間でさえ、敵対心や衝突、憎しみを生んでしまうことになります。歴史を装う、という意味では成功ですよね。ここで問題なのは、国民の記憶が第二次世界大戦の何らかの歴史を凌駕するとき、それが政治化されたり、国内でナショナリズムが高揚しているときには、現在東アジアで起きているような戦争の記憶に関する衝突が生まれるということです。72年も前に終わった戦争について、今、衝突しているのです。なんて長い年月なのでしょう。
いわゆる「記憶の政治」について考えることがなぜ重要かというと、非常に大きな政治的結末をもたらしかねないからです。そのため、私の学問的な立場は、「一国についてだけを研究していては、戦争の記憶を理解することはできない」ということです。これは、歴史の教科書についても同じです。教科書というのは通常、原因と結果について自国に関わる部分について書きがちです。
「世界に共通する記憶」はあり得るのか
多くの国々に目を向けなければならない2つ目の理由。それは、これが世界大戦だったからです。世界大戦について知っていることというのは、多くの場合は一国の立場(それが自国の立場かどうかは分かりませんが)から見たもので、本質的には第二次世界大戦から「世界」を抜き取ってしまっているのです。第二次世界大戦は世界大戦だったのだから、世界大戦として考えなければなりません。アメリカ対ドイツでもなければ、アメリカ対日本でもなく、非常に複雑でグローバルな幾何学があるのです。世界大戦は2国間戦争でもなければ、同盟関係同士の衝突だけでもなく、ほとんど全世界を巻き込んだ戦争です。