「歴史」とは、「記憶」とは何か(コロンビア大学特別講義・後編)
私が強調したいのは、共通の記憶を正しく理解しようとするならば、それが歴史であれ記憶であれ、国境の内側にだけ目を向けていてはダメだということです。はい、質問ですね?
【トニー】 記憶はどうやったら国際的になれるのでしょうか。コスモポリタンな記憶、というのはあり得るのでしょうか。
【グラック教授】 とてもいい質問ですね。答えは3つあるでしょう。1つ目は、もともとの戦争の物語というのは国民的なもので、国民性を欠くということはありません。ある国家が戦争を行って、国のために多くの人が犠牲になったのです。国のため、という以上の理由がある場合もありますが、基本的には国家のために死んだわけです。戦争についての共通の記憶が国民的であってはいけない、とは言えません。戦争についての共通の記憶は犠牲者を悼んではいけない、とも言えません。
2つ目の答えは、しかし戦争の記憶は国民的なものだけでもない、ということです。例を挙げましょう。例えばホロコースト、もしくはアウシュビッツは現在、それを実行したナチスや、ユダヤ人やロマなど被害者だけの記憶ではありません。アウシュビッツ、これは記憶の象徴ですが、ホロコーストやジェノサイドは現在、世界中の人々に共通の記憶となっています。人権や、国連のジェノサイド条約などの一部にもなっているのです。
同じことがヒロシマにも言えるでしょう。ヒロシマも、原爆を落としたアメリカや被害国である日本だけの話ではなく、今や核戦争というのは世界にとっての問題です。そのため、ある意味では、これらの記憶は国境を超えたと言えます。コスモポリタン(世界主義的)というより、トランスナショナル(多国籍の)だと言えるでしょう。インターナショナル(国際的)という言葉も違いますね。ホロコーストもヒロシマも、次回以降の講義で話す予定の慰安婦も、国民の記憶の内側にとどまらない、という意味で同じです。
3つ目に、戦争の記憶には現在、インターナショナルでありグローバル(世界的)な側面が生まれているということです。私が呼ぶところの「世界的な記憶の文化」(global memory culture)が生まれているからです。これはトモコが触れた点に関わってくるのですが、1950年には国際政治の中で「謝罪」についての議論などほとんどありませんでした。それが現在、国家元首から自国民に対してや、国家元首から他国の人々に対してというように、あらゆるところで謝罪というものが求められている。これが、世界的な記憶の文化による結果の1つです。
さまざまな場所で謝罪が求められるようになったのは、元をたどればその多くが第二次世界大戦の記憶から生まれた変化でした。オーストラリアやカナダやそのほかさまざまな場所の先住民たちは、この「謝罪の政治」がなければおそらく謝罪を得ることはできなかったでしょう。またこれが現在、自国の話にとどまらないのは、国際的にそう期待されているからです。今はこの期待を無視できなくなってきているのです。
話を戻しましょう。私の前提は、第二次世界大戦の「世界」を守ろうとしているのです(笑)。
【一同】 (笑)
【グラック教授】 さて、これからクイズをします。先ほどと同じように、正しい答えというのはないクイズです。第二次世界大戦は、いつ始まりましたか。
それぞれの国で語られる「第二次世界大戦」
【スペンサー】 1931年。
【グラック教授】 なぜ、1931年?
【スペンサー】 満州事変。日本が満州に......。
【グラック教授】 日本が満州に侵略した。
【スペンサー】 「侵略した」とは言いませんが......。
【グラック教授】 そうですか、中国人は「侵略」と言いたいだろうと思いますよ。ほかに、第二次世界大戦が始まった日は?
【ニック】 1939年9月。
【グラック教授】 1939年9月1日。ナチスによるポーランド侵攻です。ほかには?
【ニック】 1937年。日本が中国と総力戦を始めた日(日中戦争の開始)。
【グラック教授】 1937年、日本が中国と戦争を始めた。日本による中国侵略ですね。ほかには?
【ユカ】 ほとんどの日本人は、第二次世界大戦はパールハーバーから始まったと考えていると思います。
【グラック教授】 そうですね。では、ほとんどのアメリカ人はいつだと思っているでしょうか。
【全員】 パールハーバー!