バノン氏との出会い――中国民主化運動の流れで
二つの資料に関して説明をしようとすると、主催者側が「彼は夕方、必ずこの会場に戻ってきて、じっくりその話を聞く予定になっているので、その時にしてほしい」と言ってきた。もう数分後には次のシンポジウムで座長を務めなければならない。それなら夕方まで待とうと譲歩した。
徹夜のような日夜でようやく決まったバノン氏の講演
実はバノン氏を招聘するに当たり、筆者はワシントンにいる中国民主活動家らとともに、徹夜のような日夜を送っていた。というのはワシントンと東京では、ちょうど昼夜が逆転したような、おおむね12時間の時差がある。
公民力量の韓連潮博士からは、緊急連絡で「何とか日本の重量級の国会議員を招聘できるように働いてくれないか」という要望が来ていた。筆者は日頃、少なからぬ自民党国会議員に対していつくもの講演をこなしてきているので、「重量級」の議員との名刺交換もしている。その中で「中国の民主化」あるいは「言論の自由を求めて」発言してくれそうな議員を絞って、何名かと交渉をしてみた。皆さん、選挙中に自分自身の活動日程をこなせなかったので、それぞれに予定があり、都合がつかなかった。
韓連潮博士と知り合いになったのは、2016年9月にワシントンD.C.で毛沢東に関して講演した時に、その会場に彼がいたのだが、VOA(Voice of America)やNewsweekなどから取材攻めに遭い(日本のテレ朝の「ワイドスクランブル」も全過程を撮影)、講演後話をすることができなかったために、その後来日した時に、どうしても会いたいと言われ、個人的にじっくり話をしたからである。
公民力量側では、同時にバノン氏にも講演のオファーをしていたので、日本の「重量級議員」がダメだったのを知り、バノン氏の招聘に全力を注ぐ結果となった。もう後2,3日後にはシンポジウムが開催されるという時になって、ようやくバノン氏からの承諾が入り、緊急にプログラムのパンフレットを刷るというアクロバット的な日夜を送った。
11月14日夜からの開幕式では、緊迫した空気が流れた。
というのは中国政府が駐日本国の中国大使館を通して「シンポジウムを中止させよ!」という命令を出してきたのだ。中国大使館が、日本で開催されているシンポジウムを禁止させる権利があるのだろうか。日本国の領土の上で起きている冷静な議論を、他国が禁止する行動はあり得ないだろう。日本には日本の主権がある。
われわれ参加者は、より冷静に、より客観的に意見を述べ合い、団結を強めた。ここで譲歩することなどあってはならない。中国政府からの禁止命令は、「いかに中国が言論弾圧を強行しているか」ということの証拠ともなり、なおさらシンポジウムの必要性と意義を強化させるのに役立っただけである。
戻ってこなかったバノン氏
夕方にはバノン氏は必ず戻ってくるので、そのときにチャーズと毛沢東の話をじっくりすることができると主催者側に言われていたので、筆者は夕方まで会場で彼の帰りを待ち続けた。しかし待てど暮らせど、戻ってこない。