極上ホラー『ウィッチ』は「アメリカの原罪」を問う
エガースは『2001年宇宙の旅』で知られるスタンリー・キューブリック監督の苛烈なまでの厳格さと、17世紀末の「セーレム魔女裁判」を題材にしたアーサー・ミラーの戯曲『るつぼ』(1953年)の熱狂的妄想を組み合わせてみせた。セーレム以前の宗教的ヒステリーを冷徹な様式美をもって演出しており、あらゆるシーンが観客の心を捉えて離さない。
ただし、物語の奇抜なテーマに大真面目で取り組むスタイルは、ばかげた自己満足と受け取られかねない。それを避けられたのは、同じ姿勢を俳優陣も共有していたからだ。
アイネソンとディッキーの大胆不敵な演技は、観客の恐怖に火を付ける。「あのヤギと不浄な関係を結んだのか?」といったセリフは、文字にすると間が抜けて見えるが、映画の中では辛辣な笑いと恐れを生み出す。
とはいえ、この作品を支配しているのはやはりテイラージョイだ。少女トマシンの成熟しかけた体は、家の外の森に匹敵する「大いなる邪悪の源泉」として描かれる。
少女はブラウスの胸元に弟が投げ掛ける生々しい視線を無視するが、それでも森の中に魔女がいるように自分の体内に悪魔が潜んでいる感覚を覚える。トマシンの体の発達は控えめに描かれるが、少女の性は一貫して原罪の象徴的表現だ。
トマシンは男の視線によってゆがめられた自分に気付き、そこからの脱出を図る。女性は自身の体への恐れを抱くことで、自分の力に目覚める――『ウィッチ』はそう示唆しているのかもしれない。
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魔術を題材にした恐怖と迫害の寓話は、昔から大量に作られてきた。だが、エガースのデビュー作は紛れもなく21世紀の産物だ。この映画はあらゆるタイプの原理主義に冷笑を浴びせるだけではない。かつては無力な犠牲者扱いだった女性という存在に自己決定権と権威を与え、自分の力を当たり前と思っていた男たちの立場を覆す。
映画の終盤に向かう場面で、ある者がトマシンに尋ねる。「愉快に生きたいと思わないか?」。自分のための楽しみを一切許されなかった少女には、とりわけ魅力的な誘惑だ。
『ウィッチ』は邪悪な闇をどこまでも深く掘り下げ続け、ついに向こう側の世界に突き抜ける。目もくらむような最後の15分間の舞台は、ほとんどのホラー映画が存在すら知らなかった歓喜の地だ。
ここまで徹底して心の闇を見つめたホラー映画は数えるほどしかない。そこに大いなる喜びを発見した作品はさらに貴重だ。
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