「遺伝」という言葉の誤解を解こう:行動遺伝学者 安藤寿康教授に聞く.1
大学の無償化に意味はあるか?
――最近、親の収入格差や文化的な違いが子どもの教育機会の不平等をもたらしているという議論が盛んになってきています。「大学の無償化」を主張する人がいる一方で、大学に行くことに価値を見出さない「意欲格差」の問題を指摘する人もいますが、行動遺伝学の立場から教育格差の問題をどう見ますか?
安藤:この問題については、さまざまなパターンがひとくくりにされてこんがらがっているように思います。大学進学をしないのが意欲の格差だというのは、分析として粗い印象を受けますね。
お金がないから意欲も学力もあるけど大学進学を諦めているケース、お金はあっても勉強が嫌いだから大学進学なんかしないケース、お金も大学に行きたい気持ちもあるけど、東大京大か早慶にしか行く価値がないと親から吹き込まれていて、それほどの学力はないから別の道を選ぼうというケース、大学に行くことで得られる将来の収入や安定といったメリットを疑問視しているケースなど、いろいろあるでしょう。たんにやる気がないのではなく、自分の適性を考えて積極的に大学進学以外の選択肢を選んでいる場合もあるわけです。
僕自身、大学人ですから、すべての人に大学レベルの知識に触れる機会を持ってほしいとは思いますよ。だって、いちおう人類知の今の到達点を万人に開いているのが大学のはずだし、やっぱりそれなりにすごいことをやっているのですから。
だけど、そもそも大学なんて、仕事して自分で食べていける年齢になっているにもかかわらず、そんなことより何かを深く知りたくてしょうがないという、かなり変な人のために作られていたわけです。歴史を勉強しているうちに、古墳にのめり込んで、もっともっと古墳のことを知りたくなったとか、細胞の核のなかでうごめいている分子の働きが知りたくなるとか。すべての人が18歳になった段階で、そういう偏った知的好奇心を持つようになるというのは非現実的でしょう。
10人に1人、100人に1人の変な人のために大学はあったわけですが、いつの間にか大衆化し、大企業に入るためのパスポートという位置づけに変化していきました。同じ人が文学部でも経済学部でも総合政策学部でもどこでも受ける。慶應ならどこでもいいからって。いや慶應でも早稲田でもどっちでもいい、MARCHならどこでもいい。大学と名がつくところならどこでもいい......。大学は「テストに合格できる程度の汎用的な能力がある」あるいは「この社会の秩序に逆らう生き方はしない」というシグナリングにすぎなくなり、そこで何を学んだのかは問われていません。
だから、大学に入ってもつまらなくなって勉強しなくなる。そうなって久しいので、こんな「そもそも論」を言っても、もはや時代遅れといわれそうですが、こんなの本人のためにもならなければ、大学のためにもならない。大学に「一般社会人能力を育成しろ」? そんなの無理に決まってるじゃないですか。むしろ「大学を頂点とする今の学校制度の中で自分の人生を設計する」という発想自体が狭すぎるのではないでしょうか。