未来が見えないんですーーギリシャの難民キャンプにて
ついに仮設住宅へ
いったんコンテナのエリアから坂を下り、フェンスの中を歩いた。右側にRHU(レフュジー・ハウジング・ユニット)、つまりは仮設住宅が並んでいた。もともと全体はゴーカート場だったそうで、左側には名残として子供用サッカー場やすべり台があった。難民の子供たちにはうれしい施設だろう。
オックスファムという団体の青年男女が各仮設住宅に飲み物を配っているのも見えた。アダムによると、気温が高いため、難民の方々を配給の列に並ばせるわけにいかないからだそうだった。気配りは左奥にある屋台にも見て取れた。そこはごく普通のカフェになっていて、集った子供が冷たいコーヒーをストローから飲んでいるのがわかった。
どんつきを左に折れると、医療サービスのエリアがあり、MSFのマークの付いたキャンピングカー型の車両が幾つか止まっていた。スタッフたちが立って輪になり、ミーティングをしているらしいタイミングだった。
彼らに話しかけて聞いてみると、チームは全部で6人の医療・非医療スタッフと3人の文化的仲介者(カルチュラル・メディエーター)で構成されているそうだった。中にいた医者は中東系の若い女性であり、心理療法士の女性は唇にピアスをしていた。とても自由な気がした。
まず医療用の車の中を見せてもらった。救急車の2倍以上の広さはあったろうか。前の活動責任者がアレンジしたもので、ベッドがふたつ入ることもあるそうだった。元来は沿岸に出動して、着いた難民をすぐに診療出来るようになっていた。あちらに点滴、こちらに包帯、様々な薬もコンパクトに収納されていた。
車の外に出ると、例のピアスの女性が待っていてくれた。今度は心理ケア用の車の中を取材させてくれるとのことだった。ありがたくついていって車の中に乗り込んだ。小さなベンチシートみたいなものがあって、目の前にテーブルがしつらえられていた。いわゆるキャビン仕様で、彼らはそこで難民たちの心の苦しみに耳を傾けるのだった。
カラ・テペがまだ一時滞在の場所だった頃は、救助した人々にグループ・セッションを行っていた。しかし、彼らがヨーロッパを北上出来なくなり、そこが現在のような難民キャンプになってからは個別の心理ケアが中心になっているらしかった。子供がストレスで不眠になったり、家族の中でのいさかいが絶えなくなっていたり、自分たちがどこに安らぎの場所を求めればいいかわからなくなっている状況のままに、全体の不安は募っていた。
「今は何人くらいが来るんですか?」
「1日、5、6人になりました。忙しかった時は100人という日もあったんだけど」
「1日100人!」
「そう」
聞けば、彼女はギリシャで心理療法士として働き、学校にカウンセリングに出たりなどしていたそうだった。それがいまやMSFに参加し、自国の中に出来た難民キャンプで働いていた。やっていることは同じであるように見えて、それはずいぶんハードな変化に違いなかった。
けれど、彼女は車内に貼られた子供の絵、彼女を描いてくれた絵を見て言った。
「ここで働くのは素晴らしいことよ。もうすぐアテネに戻らなきゃならないんだけど、すぐまた来たい」
生き甲斐、という言葉をしばらく忘れていたなと俺は思った。