未来が見えないんですーーギリシャの難民キャンプにて
難民となったジャマールさんに話を聞く
アダムに連れられてとうとう仮設住宅エリアに足を踏み入れた。日本で見知っている仮設より頑丈なタイプのものが整然と並んでいた。しかし、実に小さな窓しかなく、電気もないという住宅は夏ともなれば暑くて中にはいられず、人々はたいていマットやクッションを外に置き、その上でくつろいでいた。
文化的仲介者のイハブ・アバシというお洒落なアラブ人がいつの間にかそばにいて、通訳をかって出てくれた。彼とアダムは少し小声で話し合い、誰にインタビューすべきかを決めた。
近くの仮設住宅に近づくのでついていくと、間に出来た狭い通路の上に日差しをやわらげる布が張ってあって、少し過ごしやすくなっていた。角の仮設の前に置いたウレタンマットの上に、中東系の長衣を着た男性がいた。イハブが話しかけると、男性は立って挨拶しようとした。非常に礼儀正しい人だった。
けれど、足もとがぐらついていた。アダムと俺は彼の肘を持ち、どうか座ってくれと言った。しかしおじさんは首を横に振った。「じゃ僕がこうして......」とマットの上に座ったのを見て、彼も腰をおろすことにしてくれた。アダムとイハブ、そして谷口さんもその場で膝を折った。
おじさんはジャマール・サラメという名前でパレスティナ人だった。母国を出たジャマールさんは、レバノン、シリア、トルコまで移動してきたのだと言った。途中で4日間を砂漠で過ごしもした。そして最終的にその年の3月24日、ゴムボートに乗ってギリシャにたどり着いた。共に国を出た家族は、今も移動途中のシリアで動けずにいるとのことだった。
現在、ジャマールさんは腰の痛みと呼吸困難に苦しめられていた。3日間の入院も経ていた。モリヤの難民登録センターにいたが、カラ・テペ難民キャンプに移って体を診てもらうようになり、本当に助かったとジャマルさんは言った。
70代だろうと思ってくわしい年齢を聞いた。
ジャマールさんは答えた。
「49歳です」
驚いて返す言葉がなかった。
彼は俺よりずっと年下なのだった。
なのに彼は足腰を弱くし、気管を傷め、皺だらけになっていた。それほど暮らしが、そして難民としての旅、生活がつらかったのだった。
同じマットの上では他にも隣に住んでいる、西アジアの人らしき小太りのおじさんが豆スープとパンを食べていた。反対側の仮設住宅の前には幼い中東系の女の子たちが遊んでいた。さらにその向こうのオリーブの太い樹にアフリカ人女性が背をつけて座り、携帯電話でしゃべっていた。
あらゆる地域から難民は来ていた。
そしてかつてと異なり、母国や旅の途中で残してきた人たちと日々、援助団体から支給された携帯電話を使ってスカイプで話し、画像を送りあっていた。けれどその便利さは逆に新しい切なさを生んでいるのではないか、と思った。彼らは家族を一時も忘れることが出来ない。急かれるような思いだろう。
「今の望みはなんでしょうか?」
気づくと谷口さんがジャマールさんに質問をしていた。ジャマールさんはすぐに答えた。
「未来が見えないんです。私はこんな状態を早くやめて子供に会いたい」
うなずくことしか出来ない俺たちに、ジャマールさんは続けて何か言った。
けれど翻訳をしてくれるはずのイハブは、黙ってジャマルの頭を胸に抱きしめてそこをなで、キスをするばかりだった。
しばらくそうしてから、イハブは遠くを見やりながら口を開いた。
「彼はこう言いました」
イハブはひとつ間を置いて言った。
「私が死ぬ前に問題が解決してくれればいいんですが、と」
俺もジャマールさんを抱きしめたいと思った。
背中を何度でもさすりたかった。
年下の友人がなぜそんな目にあっているのか、俺にはまったく意味がわからなかった。
そして、俺たちがそうしている間にも、国を出ざるを得なくなった難民たちはまだまだこうして、危険な船旅(MSF制作のこの動画を見て欲しい)に巻き込まれていた。
.(つづく)
いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。