優柔不断なツァーは追加の電報で気が変わった――第一次世界大戦史(3)
他方、北欧クルーズに出かけていたカイザーは、報告を受けてはいたものの、最終的にヨーロッパ戦争に発展はしないと楽観視していた。二七日にポツダムへ戻ったカイザーは、翌日、セルビアの回答内容を知り、それが宥和的であることを「予想以上」と捉えた。彼はオーストリアが戦争に訴える理由はなくなったと考え、自ら仲裁に乗り出す意向も示す。
しかし、指示を受けた外相も、ベートマンも、カイザーの主張をまともにオーストリア側に伝えようとしなかった。クラークが書いているように、カイザーが以前のように臣下を動かす力を十分持っていたら、カイザーの介入で危機の展開も変わったであろうが、そうはならなかった。
それでもまだ妥協の余地は残っていた。なぜなら、ロシア側に最後通牒の期限の延期を求められて、ベルヒトルトは拒否したものの、彼は期限が切れてからもセルビア側が要求に従えば戦争を避けることができると回答していたからである。
しかし、ロシアの部分動員を知って、セルビア政府はむしろ勢いづいていた。駐露セルビア公使は、「セルビア人の完全な統一」を果たす絶好の機会が訪れたとさえ報告している。
七月二八日午前、皇帝フランツ・ヨーゼフは、対セルビア宣戦の詔勅に署名する。こうして、オーストリア対セルビアの戦争は始まったが、まだこの段階では地域紛争に留まっていた。この七月危機のさなか、老皇帝は次のような趣旨のことを漏らしたと伝えられる。「この君主国が亡びなければならないならば、その時には少なくとも名誉をもって亡びなければならない」。名誉ある滅亡かどうかは別にして、この古くからの帝国は亡ぶ。しかし、老皇帝はそれを目撃せずに済む。
揺れるツァーの決断
部分動員を決めていたロシアは、さらに総動員(三〇日下令)へと向かう。これを「七月危機におけるもっとも重大な決定の一つ」とクラークは言う。当時は外交文書の捏造(ねつぞう)などもあり、はっきりとしなかったが、ロシアは総動員をかけた最初の国だった。なぜロシアは部分動員を総動員へと切り替えたのか。
まずは、先にも述べたように、部分動員が技術的に実行困難であったことがある。さらに外交交渉の行き違いもあった。少し経緯を見てみよう。
ドイツでは、戦争をオーストリアとセルビアとの間に局地化したいと考えたベートマンが、カイザーからツァー宛の電報(二八日付)で、墺露間の調停の意向を伝えた(二九日の夕刻にはもう少し踏み込んだ内容の電報を打つ)。