残虐映像に慣れきってしまった我々の課題 ―映画『シリア・モナムール』映像の受け取り方
『シリア・モナムール』(C)2014 - LES FILMS D'ICI - PROACTION FILM
<ドキュメンタリー映画『シリア・モナムール』は、シリア内戦をリアルに描いている。そのショッキングな映像にも、どこか慣れてしまっている自分。そうしたことが起きる現代の情報環境を考える...>
6月18日から公開中のドキュメンタリー映画『シリア・モナムール』は、シリア内戦のリアルを描いたものだ。これでもかと詰め込まれた残虐でショッキングな映像の数々は、シリアの現状を世界に伝えるためでもあり、観た者は言葉を失うという感想を述べている。
しかし、日本で平和に暮らす多くの人々にとって、シリアの現状は同情しつつもどこか縁遠いと感じてしまうのも事実ではないか。もっといってしまえば、どこか残虐な映像を観ても、「かわいそうだな」という感想をぽつりと心につぶやいたその次の瞬間、もうシリアのことを考えなくなってしまうのではないか。
残虐な映像も「よく観る光景」として処理してしまうとすれば、それは悲劇を「体験」ではなく映像を通して「見る」我々にとっての、映像の受け取り方に関する問題だ。
シリア内戦と映画の概略
2010年から生じたチュニジアの「ジャスミン革命」。それを契機に中東の多くの国で「アラブの春」が訪れたことは記憶に新しい。シリアもその流れに乗って反政府組織が革命を企てて武器を手にとった。しかし、革命は達成されずに内戦は激化。2014年頃からはISILがシリアで勢力を拡大。政府軍や反政府軍、加えてISILや彼らに敵対する世界中の政府による様々な思惑が錯綜する現在のシリアは、混迷を極めている。
映画の簡単なあらすじはこうだ。映画監督のオサーマ・モハンメドは、パリに亡命中のシリア人。自国の内戦に心を痛める中、モハンメドはSNSに日々投稿される名も無きシリア人が撮影した映像を繋ぎ合わせることで、シリア内戦の残虐さや悲劇を伝えようとする。そんな中、シマヴと名乗るシリア在住のクルド人(シリア内の少数民族)とSNSで出会い、彼女が撮影した映像がモハンメドに送られる。
本作はドキュメンタリー映画であるが、監督のモハンメドは現地におらず、自ら撮影することはない。よって、名も無きシリア人やシマヴから送られた映像をつなぎ合わせることで映画を成立させる。そこには、自分が現地に行くことのできないもどかしさや、映像から感じる滲み出る深い悲しみが表現されている。
【参考記事】シリアの惨状を伝える膨大な映像素材を繋ぎ合わせた果てに、愛の物語が生まれる
我々にとっての映像体験とは
『シリア・モナムール』を観た人々は、内戦の悲劇に衝撃を受ける。映画の公式ホームページには識者のコメントも掲載されており、筆者もコメントを寄せたが、悲劇の衝撃以上に、残虐映像の受け取り方のジレンマを表明した。
映画の映像は確かに悲劇だ。戦闘で亡くなる若者や、幼い子供の遺体も登場する。まさに悲劇。しかしどうしても、「悲劇の既視感」が筆者の脳裏をよぎってしまった。