残虐映像に慣れきってしまった我々の課題 ―映画『シリア・モナムール』映像の受け取り方
筆者は32歳だが、私の世代やその下の世代にとって、インターネットは身近な存在だ。そこには古今東西の戦争をはじめとする悲劇、そしてそれに伴う悲惨な映像が日々投稿されている。確かにインターネットやSNSは悲劇を伝えることで感情的連帯や「ソーシャル革命」を促進している。しかし、真剣に戦争の悲劇を伝える映像を大量に見る中で、そうした映像にどこか慣れてしまった自分もいる。そして白状すれば、私は本作を観た時に、どこかで「見慣れた光景」だと感じてしまった。
読者の中には「不謹慎だ」「戦争の悲劇を理解していない」と思う人もいるだろう。筆者も頭では理解しているつもりであることを断っておく。しかし、よくも悪くも日本で幸せに暮らし、映像を通してのみ悲劇を「見る」世代にとって、身体的な「経験」としての悲劇はない。どんなに年長世代に批判されたとしても、頭の中の「悲劇映像」というカテゴリーに収納されるだけに終わってしまいそうになる自分に、映画を観ていて気付かされた。そしてそうした感想を持つ人々も一定数いるのではないか。とりわけ小さな頃からネットを通して様々な映像をみてきた世代にとっては。
要するにこれは映像経験と身体経験のズレである。湾岸戦争では、米軍側からの視点でのみ提供される、凄惨なシーンがひとつもない機械的な映像によって、戦争の悲劇的な側面はみられなくなった。そのためフランスの思想家ジャン・ボードリヤール(1929〜2007年)は『湾岸戦争は起こらなかった』という書物を書いている。それは、米軍による空爆の映像はまるでゲームのようなものであり、テレビで見える戦争は本来の戦争とは異なるものになったという、当時の鋭いメディア批評である。一方からの映像が現実を歪曲しているというわけだ。
現在はSNSを通じて被害当事者の視点からも生々しい映像が送られており、戦争の悲劇を多く目にすることができる。それでも、実際に生じているのがわかっても我々の身体的反応は鈍感になる。戦争の現実をみせつけられても、それでも我々は映像を「ショッキングな映像」というフレームに回収してしまうということだ。シリアの問題を考えることが重要である一方、映像の受け取り方に関する問題もまた、我々に課されていることの気付かされた。
『シリア・モナムール』の監督モハンメドは、身体はパリにあり、シリアの映像を撮ることはできない。だからこそSNSに投稿された映像を用いるが、彼の態度はどこまでも現実を伝えることの不可能性を示しているようにも思える。モハンメドは現地で映像を撮影するシマヴを媒介にすることで現実を伝えるが、彼自身の身体と映像の間のジレンマが印象的だ。
この映画を観る私も、同じジレンマを抱えている。映像がどれほど悲劇的でも、それに心からの共感を示すことができない。そればかりか、映像慣れしてしまった私は現実に向き合う前に、そうした映像慣れの問題に取り組まなければならない。メディア論においては映像と身体の不一致という問題は古くから議論されているが、こうした問題はますます深く議論されなければならないだろう。
最後にもう一点。シマヴがシリアの現実をモハンメドに知らしめるのであれば、日本の現実を知らしめるのは何なのだろうか。我々にとって、現実を映すシマヴのような存在とは何なのだろうか。本作を日本で鑑賞することには、様々な意味があるように思われる。
『シリア・モナムール』
監督:オサーマ・モハンメド
シアター・イメージフォーラムほかにて公開中
(C)2014 - LES FILMS D'ICI - PROACTION FILM
[執筆者]
塚越健司
1984年生まれ。情報社会学研究者。専攻は情報社会学、社会哲学。ハッカー文化研究を中心に、コンピュータと人間の歴史など幅広く探求。得意分野はネット社会の最先端、コンピュータの社会学など。TBSラジオ『荒川強啓デイ・キャッチ!』火曜ニュースクリップレギュラー出演中。著書に『ハクティビズムとは何か』(ソフトバンク新書)共著に東浩紀監修『開かれる国家 国境なき時代の法と政治』(KADOKAWA)など多数