オリンピックと建築家
いつの時代も…… 建築史をひも解けば、国や時代の記念碑が実現するまでの有為転変、右往左往は、今も昔も変わらない(12月22日、2020年東京オリンピック・パラリンピックの主会場となる新国立競技場の設計・施工案で選ばれた“A案”の建築家、隈研吾ら) Yuya Shino-REUTERS
国や時代を象徴する記念碑的建築を、「自分こそ」と自負する建築家たちは、取りっこを繰り返してきた。
たとえば、明治二九年竣工の日銀本店はどうか。御雇外国人建築家にもっぱら頼んできた記念碑を初めて日本人建築家に託そうと明治政府が考えた時、まず名の挙がったのは辰野金吾ではなく山口半六だった。山口は大学南校を出てフランスに学び、帰国後は文部省に入り、大学や高等学校を手掛け、文部省内のランクは、森有礼大臣に続きナンバー3の地位にあった。
山口に分があった。にもかかわらず辰野に指名が下ったのは、当時日銀を仕切っていた高橋是清との縁による。明治の最初期、唐津藩の英学塾で、辰野は高橋の教え子それも級長だったし、上京して工部大学校に入ったのも高橋の薦めによる。
山口に続く辰野のライバルは妻木頼黄(よりなか)だった。妻木は、コーネル大学とベルリン工科大学に学び、帰国後は内務省さらに大蔵省の建築家となる。内・蔵両省の建築家が文部省の工科大学教授より政府内での格が上なのは言うまでもない。辰野が妻木より優位だったのは、日本建築学会と工科大学というアカデミーを握っていることと、妻木の許にいるスタッフが全員、日本の建築教育を一手に握る辰野の教え子もしくはその流れだったことくらいか。
辰野と妻木は、国会議事堂をどちらが手掛けるかを巡ってもつれにもつれ、結局、妻木の死によって辰野は勝ったものの、設計を決める前に辰野もスペイン風邪で急逝し、文字通りの死闘に終わっている。辰野か妻木かどちらか一人がやれば、今よりは見映えのする建築になったと思われる。
東京オリンピックについて述べよう。この名のオリンピックは戦前に一回、戦後に今回を含めて二回、計三回計画されている。今回のはこの文が出る頃にケリが付くはずだが、その前の二回について、建築史家として知るところを綴ってみたい。
昭和一五年に開催予定だった東京オリンピックから。
設計は、当時、東京帝国大学の新進建築家として鳴らしていた岸田日出刀助教授が予定されていた。もちろん、筆頭教授にして日本の建築界の、辰野と佐野利器に続く三代目リーダーでもあり、内務省にも強い筋を持つ内田祥三(よしかず)の指名による。
岸田は、ヒットラーのベルリンオリンピックの会場を視察すべく派遣されるが、帰国後、内田には予期せぬことが三つ起こる。一つは、政府としてはナチスのオリンピックこそ手本にするつもりなのに、岸田は、会場を手掛けたヒットラーのお抱え建築家アルバート・シュペーアのもとに出向かなかったばかりか、当時のドイツ建築界での敵役ブルーノ・タウトなどのモダニストばかりに会い、帰国後、シュペーアの古典的デザインを古臭いと批判した。
このことは建築界の内側の問題として納まる可能性も強かったが、納まらないのは会場をどこにするかで、なんと青山練兵場がいいと公言したのである。今は知る人も少ないだろうが、かの地は大日本帝国陸軍の聖地としての性格を持つ。明治神宮に隣り合い、首都の練兵場として知られ、軍の政治犯(反乱軍)もここで刑に処せられている。
もちろん、帝国大学の一建築家たちによる根回し無しの立地計画に軍の反発は激しく、万事休す。
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