最新記事

文化

モスク幻像、あるいは世界史的想像力

郊外の多文化主義(補遺)

2015年12月11日(金)15時48分
谷口功一(首都大学東京法学系准教授)

巨視的観点から 西暦610年頃に始まり、世界に広がっていったイスラム教は決して「一枚岩」ではないし、時間軸上でキリスト教と単純に対比すればまだ15世紀のただ中にあるともいえる(世界最大のイスラム人口国インドネシアにあるモスク) BudiNarendra-iStockphoto.com


論壇誌「アステイオン」(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス)83号は、「マルティプル・ジャパン――多様化する『日本』」特集。同特集から、法哲学を専門とする首都大学東京准教授、谷口功一氏による論文「郊外の多文化主義」を4回に分けて転載した。ここに、パリ同時多発テロを受けて書き下ろされた補遺を掲載する。

※第1回:郊外の多文化主義(1) はこちら
※第2回:郊外の多文化主義(2) はこちら
※第3回:郊外の多文化主義(3) はこちら
※第4回:郊外の多文化主義(4) はこちら

 2015年11月14日の早朝、羽田空港の国際線ターミナルでジャカルタ行きの便を待っていたわたしは、出発便の搭乗ゲートでパリ同時多発テロの発生を知った。ちょうど隣のゲートがパリ行きだったため騒然とした雰囲気のなか、慌ただしく機上のひととなったわたしは、1億9,000万人以上のムスリムを抱える世界最大のイスラム人口国、インドネシア共和国へと向かったのだった。

 2億5,000万人、世界第4位の人口を抱えるインドネシアは、神鳥ガルーダをあしらった国章の中の「多様性の中の統一(Bhinneka Tunggal lka)」という言葉が示す通り、多文化主義を標榜する国家である。国内にはキリスト教、ヒンドゥー教、仏教、儒教の信者も存在している。

 今回はジャカルタから車で3時間ほどのところにある高原都市バンドゥンの大学も訪れたのだが、そこからジャカルタへの帰路、スンダ人ドライバーのKusrianが気を利かせ、見事な景色を堪能できる裏道を通ってくれた。ハイウェイではない曲がりくねった山岳地帯の道中、助手席に乗ったわたしは英語と20年以上前に習った拙いインドネシア語で彼との長い会話を楽しんだ。

 その際、彼は数日前のパリ同時多発テロに哀悼の意を示すFacebookアイコンの「トリコロール化」について触れた。彼の口調に非難がましいところはなく穏やかなものだったが、それは次のようなものだった。――「毎日同じか、それ以上の子どもを含むムスリム同胞がシリアで殺されたり、難民になったりしているのに、なぜパリだけが特別視されなければならないのか?」と。事件の直後、ウェブ上でも取りざたされていた事柄ではあるが、このことをムスリムの口からじかに聞くのは重い。

 また、滞尼中、彼も含め多くのムスリムから繰り返し聞いたのは「彼らはわれわれとは違う」という言葉だった。彼らとはISであり、テロ事件の犯人たちである。当たり前のことではあるが、ひと口にムスリムといっても、決してそれは「一枚岩(monolithic)」ではない。私は帰国後テロ関連のニュースに接するたびに、この時に出会い言葉をかわした人びとの顔を思い浮かべた。

 本稿の母体である「郊外の多文化主義」の中で紹介したケナン・マリクは、パリ同時多発テロをうけ、早速12月8日付で「欧州の危険な多文化主義(Europe's Dangerous Multiculturalism)」という論文を『フォーリン・アフェアーズ』誌に投稿しているが、その中では若いムスリムたちの「過激化(radicalization)」についてまことしやかに流通する定説に反駁を加え「一枚岩のイスラム過激派」という過度に単純化された枠組みを批判している。

 マリクの話を簡約すると、「イスラム過激派からの思想的影響」や「統合の失敗」が過激化とその帰結としてのテロを引き起こしているとされるが、前者に対しては、たとえば英治安情報機関MI5の漏洩資料を示しながら、イスラム原理主義の過激な宗教思想に影響されたわけではなく、むしろ彼らは宗教的実践にあまり熱心ではないことを明らかにしている。また、後者については、彼らは裕福な家庭の出身であったり高い教育を受けていたりするわけで、必ずしも統合の失敗ではないことを論じている。シャルリ・エブド事件の首謀者はモスクにはほとんど通っておらず、信心深かったというわけでもないし、パリ同時テロの首謀者はベルギーのトップクラスの中学に通っていたのだった。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

豊田織機の非公開化報道、トヨタ「一部出資含め様々な

ビジネス

中国への融資終了に具体的措置を、米財務長官がアジア

ビジネス

ベッセント長官、日韓との生産的な貿易協議を歓迎 米

ワールド

アングル:バングラ繊維産業、国内リサイクル能力向上
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
2025年4月29日号(4/22発売)

タイ・ミャンマーでの大摘発を経て焦点はカンボジアへ。政府と癒着した犯罪の巣窟に日本人の影

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは? いずれ中国共産党を脅かす可能性も
  • 3
    トランプ政権の悪評が直撃、各国がアメリカへの渡航勧告を強化
  • 4
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは…
  • 5
    アメリカ鉄鋼産業の復活へ...鍵はトランプ関税ではな…
  • 6
    ロシア武器庫が爆発、巨大な火の玉が吹き上がる...ロ…
  • 7
    関税ショックのベトナムすらアメリカ寄りに...南シナ…
  • 8
    ロケット弾直撃で次々に爆発、ロシア軍ヘリ4機が「破…
  • 9
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 10
    ビザ取消1300人超──アメリカで留学生の「粛清」進む
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    「生はちみつ」と「純粋はちみつ」は何が違うのか?...「偽スーパーフード」に専門家が警鐘
  • 3
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初期に発見される
  • 4
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 5
    女性職員を毎日「ランチに誘う」...90歳の男性ボラン…
  • 6
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 7
    『職場の「困った人」をうまく動かす心理術』は必ず…
  • 8
    自宅の天井から「謎の物体」が...「これは何?」と投…
  • 9
    「100歳まで食・酒を楽しもう」肝機能が復活! 脂肪…
  • 10
    トランプ政権はナチスと類似?――「独裁者はまず大学…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった...糖尿病を予防し、がんと闘う効果にも期待が
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 5
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 6
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 7
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 8
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 9
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中