抗日戦勝記念式典は、いつから強化されたのか?
しかしモスクワにおける経験は江沢民に「中国は世界反ファシズム戦争の重要な一部分なのだ」ということを世界に大きくアッピールしたいという激しい渇望を与えたにちがいない。
それからというもの、全国に愛国主義教育基地をつぎつぎと建設し始め、膨大な数に上る「抗日戦争遺跡」を愛国主義教育の学習要領の中に組み込んで、その見学をすることを義務付けていったのである。
かくして「反日的思考」が若い世代の中に醸成(じょうせい)されていった。
この若者たちはやがてインターネット空間の中で言論活動を行うようになり、中国政府への不満を「反日運動」の中で爆発させるに至る。ネットユーザーの数が6億を越える今では、逆に中国政府がネットユーザーにおもねるという現象をきたし、対日強硬策は後戻りできなくなっているのである。
江沢民には個人的な理由が......
江沢民がトウ小平の指名を受けて中共中央総書記に就任したのは天安門事件後間もない1989年だが、国家主席に就任したのは1992年3月である(全人代の承認が必要)。
上海から突然中央にやってきた「おのぼりさん」を、北京派閥たちは嫌った。中でも北京市の書記をしていた陳希同は、自分が次期国家主席に指名されるべきだという願望を持っていたので、トウ小平に江沢民の出自をばらした。
江沢民の実父は、日中戦争時代、日本の傀儡政権であった汪兆銘政権管轄下にあった「ジェスフィールド76号」(通称:76号)という特務機関の官吏だった。だから金持ちの家で育っただけあって、江沢民はピアノも弾ければダンスもできる。酒が入れば炭坑節だって歌い出す。
ところが日本が敗戦すると、あわてて実父の弟の革命烈士(中国共産党員)の養子になったと偽り、共産党に入党した。今ではその過去を知らない人は少ないが、当時は、こんことを口にするのは絶対にタブーだった。陳希同を恨んだ江沢民は1995年に陳希同を牢屋にぶち込み、出自の過去を封印した。もし出自の秘密がばれたら、「売国奴」と罵倒され、国家主席どころか、共産党員になる資格さえない。
そこでその封印をより強固にして、「自分がいかに反日であるか」を人民に植え付けるために、「反日」を声高に叫んだのである。
反日傾向に逆らう者は、逆に「売国奴」として罵倒される。
以来、自分が「売国奴」あるいは「売国政権」と罵倒されないようにするために、国家指導者の対日強硬路線は強化されていくばかりなのである。
[執筆者]
遠藤 誉
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会科学研究所客員研究員・教授などを歴任。『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』など著書多数