最新記事

東南アジア

タイ動乱「陰の主役」の真実

タクシン元首相は民主主義を実現したが国は分裂させた、というのは正しくない。分裂させたからこそ民主主義的だったのだ

2010年5月19日(水)17時47分
ジョエル・シェクトマン(ジャーナリスト)

混乱する市街 デモ隊排除のため治安部隊が火をつけたバリケードを消火する消防士(バンコク、5月19日) Damir Sagolj-Reuters

 今月13日に始まったタイ治安部隊とタクシン・シナワット元首相派勢力との衝突は、40人近い死者を出す事態に発展している。

 いわゆる「赤シャツ隊」のタクシン派は、06年の軍事クーデターでタクシンが失脚・亡命してから、タクシン派政治家の公民権が停止されていることについて、首都バンコクの市街地を占拠して抗議を続けている。

 バンコクからのニュース映像は、戦闘地帯の急拡大を伝えている。居並ぶ治安部隊が群集に向けて発砲し、非武装の市民の死体が道に転がり、車は炎上し、バリケードが築かれている。

 抗議活動の中止を条件に政府側は話し合いに応じるとしていたが、治安部隊は19日にバンコク中心部でデモ隊のバリケードを突破。ロイター通信によれば、タクシンは治安部隊による強制排除が国中でゲリラ戦を引き起こす可能性がある、と述べた。

 泥沼化にもかかわらず、タクシンを追放したエリート層が後悔している様子はない。彼らにとって、そしてタイ国外の人々にとって、タクシンはポピュリストのデマゴーグ(大衆迎合主義の扇動政治家)だった。タクシンは無教養な農村貧困層の大衆を操って権力を握った。第2のウゴ・チャベスになっていたかもしれない、というのが彼らの見解だ。

 だがタクシンは、砕け散ったタイ民主主義が最も素晴らしかったころを象徴する人物だ。確かに不手際は数え切れないほどあった。彼は素直な政治家などでなく、汚職に手を染めたこともほぼ間違いないが、タクシンのタイ愛国党は01年に下院で初めて500議席の過半数に迫る248議席数を獲得した政党だ。タクシンは農村部の政治に疎い大衆を動員することで、70%という記録的な投票率も実現した。

 元警察官で実業家のタクシンは政界に進出するにあたり、バンコクの富裕層から国民の80%を占める農村貧困層へ権力の中心を移す、と約束した。そしてタクシンはその通り約束を実行した。

利益誘導と民主主義は矛盾しない

 過去30年間、タイは軍事政権と独裁者の統治との間で揺れ動いて来た。97年のアジア通貨危機によってチュアン・リークパイ元首相が権力を握り政治改革を推し進めたが、彼の金融引き締め策は景気後退に苦しむ農村貧困層を無視するものだった。

 彼らの要求に耳を傾けることを約束して、01年に登場したのがタクシンだった。タクシンは農村部の開発に数十億ドルをつぎ込んだ。小口融資や起業支援、あるいは農作物の生産拡大資金として、タイの約8万の村にそれぞれ2万5000ドルを支給した総額23億ドルの農村ファンドもその一環だ。

 警察官時代にアメリカ留学の経験もあるタクシンは、農村部の小規模ビジネスの起業を支援するという自由主義的な手法と、農家への債務支払い猶予や補助金支給といったポピュリスト的政策をない交ぜにして実行した。こうした政策によって、国民1人当たりGDP(国内総生産)は01年から06年の間に70%も増えた。農村部の住民収入の伸びはそれ以上だった。

 01年にタクシンは貧困層が75セントで医療を受けられる医療保険制度をつくった。野党はタクシンが票をカネで買っていると非難した。だが貧困ライン(生活に必要な最低限の物を購入することができる最低限の収入水準)以下で暮らす国民は、00年に1270万人いたが、4年後には710万人まで減少した。

 タクシンの大義はほかの政治家と同様だ。すなわち権力を握り、権力を維持すること。それでも彼は得票操作ではなく、正当な選挙と政策によってそれを成し遂げた。利益と統治をうまく結びつけることで、指導者は権力の座にとどまる----機能する民主主義とはそういうものだ。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

米ADP民間雇用、4月は19.2万人増 予想上回る

ビジネス

EXCLUSIVE-米シティ、融資で多額損失発生も

ビジネス

イエレン米財務長官、FRB独立の重要性など主張へ 

ビジネス

米3月求人件数848.8万件、約3年ぶり低水準
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が愛した日本アニメ30
特集:世界が愛した日本アニメ30
2024年4月30日/2024年5月 7日号(4/23発売)

『AKIRA』からジブリ、『鬼滅の刃』まで、日本アニメは今や世界でより消費されている

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    「2枚の衛星画像」が伝える、ドローン攻撃を受けたロシア空軍基地の被害規模

  • 2

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 3

    ロシアの大規模ウクライナ空爆にNATO軍戦闘機が一斉起動

  • 4

    ポーランド政府の呼び出しをロシア大使が無視、ミサ…

  • 5

    どの顔が好き? 「パートナーに求める性格」が分かる…

  • 6

    米中逆転は遠のいた?──2021年にアメリカの76%に達し…

  • 7

    「レースのパンツ」が重大な感染症を引き起こす原因に

  • 8

    パレスチナ支持の学生運動を激化させた2つの要因

  • 9

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 10

    大卒でない人にはチャンスも与えられない...そんなア…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドローンを「空対空ミサイルで撃墜」の瞬間映像が拡散

  • 4

    AIパイロットvs人間パイロット...F-16戦闘機で行われ…

  • 5

    どの顔が好き? 「パートナーに求める性格」が分かる…

  • 6

    日本マンガ、なぜか北米で爆売れ中...背景に「コロナ…

  • 7

    「すごい胸でごめんなさい」容姿と演技を酷評された…

  • 8

    中国の最新鋭ステルス爆撃機H20は「恐れるに足らず」…

  • 9

    ウクライナ軍ブラッドレー歩兵戦闘車の強力な射撃を…

  • 10

    今だからこそ観るべき? インバウンドで増えるK-POP…

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 3

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 4

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 5

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 6

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 7

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 8

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 9

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 10

    「誰かが嘘をついている」――米メディアは大谷翔平の…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中