マリキはイランの軍門に下らない
同じシーア派のマリキ首相はイランの操り人形という不満もあるが、マリキはイランが油断できない相手だということはよく知っている。アメリカともイランとも距離を取る独自路線はどこまで通用するのか
腹の探り合い アハマディネジャド(左)と握手するマリキ(09年1月、テヘラン) Morteza Nikoubazl-Reuters
イラクのヌーリ・マリキ首相には、20数年たった今も忘れられないイラン亡命時代の苦い思い出がある。当時はイラン・イラク戦争の真っただ中。マリキはイラン南部でサダム・フセイン大統領の打倒を目指すイラク人の反体制ゲリラ組織を指揮していた。
あるときマリキは、イラクとの国境地帯に入る許可をイラン当局に求めた。だが反応は冷たかった。許可が欲しければ車で12時間の距離にある町へ行け──ある担当者にそう言われたマリキは吹雪の中を移動したが、要望はあっさりと却下された。
マリキは後年、シリアのダマスカスで開かれた公式行事の会場でこの担当者を見つけた。側近のサミ・アル・アスカリによると、マリキは友人にこう耳打ちしたという。「奴が近づいてきたら、靴を脱いで頭をぶん殴ってやる」
アメリカがイラクから手を引きつつある今、欧米とアラブ諸国にはイラクがイランの勢力下に入ることへの懸念が広がっている。イラク国内でもイスラム教スンニ派を中心に、シーア派主導のマリキ政権は同じシーア派を国教とするイランの操り人形にすぎないという不満の声が上がっている。
だがマリキは過去の苦い経験から、イランのやり方は百も承知だ。むしろ現在のマリキ政権はイランを脅しの材料に使い、周辺のアラブ諸国や欧米から譲歩を引き出そうとしている。
水辺に連れて行くだけで飲ませない
マリキはイランの「友人たち」について語る際、こんなイラクのことわざを引用したという。「彼らはおまえを水辺に連れて行ってくれる。だが結局、喉が渇いたおまえをそのまま連れ戻す」
マリキの率いるアッダワ党は、シーア派の復興運動として誕生した組織で、1970年代にはフセイン政権にとって最も厄介な国内の反対勢力に成長した。そのためフセインはアッダワ党を徹底的に弾圧。同党によれば、20万人以上の党員や関係者が殺されたという。マリキも79年10月、命からがら国外に脱出した。
当時のイランは自分たちに安全な作戦拠点を提供してくれた唯一の国だったと、アッダワ党の関係者は語る。両者の間には、反フセインという共通点もあった(当時はアメリカも含め、大半の国がフセイン政権を支持していた)。
80年にイラン・イラク戦争が始まると、イラクの反政府ゲリラへのイランの支援は強化され、1年後には活動の拠点となるキャンプの設立が許可された。場所はイラン南西部の都市アフワズから20キロ、ペルシャ人が多数派のイランの中でアラブ系住民が多いイラクとの国境地帯だ。ここで数百人のゲリラ兵が寝食を共にし、イラク軍出身者から軍事教練を受けた。
このキャンプを創設したアッダワ党の長老フセイン・アル・シャーミは、ゲリラ兵にとって「緑のオアシス」だったと語る。マリキは迷彩服姿で医師や宗教指導者、一般党員と議論を戦わせ、「殉教はわれわれを強くする」と訴えた。
反フセインで共闘するが後に分裂
だが、この「オアシス」は長続きしなかった。イラク側は最高指導者を頂点とするイラン型イスラム国家モデルに反発し、イラン側はイラク人ゲリラを自分たちの支配下に置こうとしたからだ。
やがてイラン当局は新たなイラク人反体制派組織、イラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI)を立ち上げることにした。アッダワ党の一部はSCIRIに合流したが、大半は参加を拒否した。「SCIRIは(イランの)息子だった」と、元アッダワ党員で現在はイラク連邦議会議員のイッザト・アル・シャバンデルは言う。