殺人事件が語る中国の闇
「小皇帝」に財産を失って
警察によると、2度の離婚後、唐はすべての希望を一人息子の文駿に託すことに決めた。安楽街のアパートを約2万8000ドルで売り払うと、やがてマイクロバスを運転する文駿の姿が目撃されるようになる。唐が買ってやったらしく、文駿はそれで白タクや運送業をしていた。唐は1年で財産を使い果たしたと、警察筋は言う。
かつてのどかな雰囲気だった唐の居住地区周辺は、ハエのわくごみや瓦礫の山が目立つようになった。そのなかに安っぽいピンクや灰色の家が並ぶ。富裕農家が出稼ぎ労働者の貸し部屋として建てた家だ。
唐はこうした部屋の一つに移り住んだ。相談員の王たちが唐の職探しを手伝おうとしたが、「唐はいつも言い訳をした」と、王の同僚は言う。「生活費を稼がなければならないのに、働きたがらなかった」
唐はデパートの警備員の仕事を「体調が悪い」と断り、交通指導員の仕事も「一日中炎天下に立つのは大変だから」と断った。「肉体労働をするのは恥だと思っていたのだ」と、ある近隣住民は語る。
背が高くきちんとした身なりをしている以外に、これといった特徴のなかった唐だが、タバコへのこだわりは誰もが覚えている。
唐が吸っていた「中華」は、共産党幹部をはじめひと昔前のエリート層が好んだタバコだ。値段は1箱約7謖と、普通のタバコの2倍近くする。唐は毎日1杯75謐の麺を食べては、タバコを吸い、夜遅くまでマージャンに興じた。
メンツにこだわった末に
文駿も勤勉な生活には興味がなかったようだ。07年5月、彼は友達と町の浴場に繰り出した。酒を飲んだりホステスのサービスを受けるたぐいの場所だ。
地元警察によると、文駿はそこでひと晩を過ごし、翌朝支払いをせずに逃げようとした。文駿は詐欺容疑で10日間拘留されたが、警告を受けただけで釈放された。被害額が150ドル程度と大きくなかったからだと、警察筋は言う。
文駿が警察の世話になったのはこれだけではない。今年3月には、同居人の数百謖相当を盗んでいる。このときは懲役6カ月の有罪判決を受けたが、執行猶予がついた。「彼は乱暴者ではなかったし、後でカネは返すつもりだったと主張した」と警察筋は語る。文駿は父親に金を無心していたようだ。
唐はひどくふさぎ込むようになった。「(唐は)理想が高すぎたから、落胆も大きかった」と、王は振り返る。
4月、唐は出稼ぎに行くと宣言した。「メンツを守るためだ」と、杭州の中心街で働く唐の知人は言う。「私だって何もかも失って破産したら物ごいをする。ただし故郷以外の場所でね」
だが唐はなぜか、中国で最も多くの出稼ぎ労働者を送り出している四川省に向かった。そして5月12日、その四川で6万9000人が死ぬ大地震が起き、ひと晩で数千万人が家と仕事を失うと、唐の出稼ぎ計画も砕け散った。
唐は杭州の貸し部屋に戻ってきた。何もかも失ってもなお、彼は体面を保とうとした。同居人たちは唐が夜、すでに一着しかなくなった服を中庭の流し台で素手で洗う姿をよく見かけた。
8月1日、彼はいつもの食堂で75謐の麺を食べ、タバコを吸った。そして家賃45謖を支払った。家賃の支払いが滞ることはなかったと、大家は言う。唐は身の回りの品をまとめて紙袋に入れた。といっても紙袋の半分にも満たなかった。
午後5時ごろ、唐は文駿に電話をかけた。仕事を探しに町を出る。うまくいったら稼ぎを持って戻るが、「戻ってこなかったら、俺のことは探さなくていい」。警察によれば、それが唐が息子にかけた最後の言葉だった。その晩、唐は夜行列車で北京に向かった。
事件後、警察は文駿に父親が北京でアメリカ人観光客を殺し、自殺したことを伝えた。文駿に「これといった反応はなかった」と、警察筋は本誌に語った。「まったく無表情だった」
[2008年12月 3日号掲載]