殺人事件が語る中国の闇
失業、妻の浮気、離婚
80年代初めは、唐の人生の絶頂期だった。当時、彼は杭州の国営計器工場で働いていた。国営企業は確実に賃金を支給するだけでなく住宅、医療、年金も保障した。幼稚園を併設した企業も多かった。誰も儲けのことなど考えない。「唐は人がうらやむような生活をしていた」と、知人は言う。
杭州はマルコ・ポーロが世界一美しい都と呼んだ街。唐はこの湖と運河の都でも、とりわけ景観のよい西湖区安楽街の社宅に入居した。トイレや台所は共同だが、2階の東角にある彼の部屋は一日中日当たりに恵まれた。
唐は工場の同僚と結婚した。87年には息子の文駿(ウエンチュン)が生まれた。一人っ子政策に従った夫婦にとって、彼がたった一人の子供。夫婦はほかの親と同様、一人息子の文駿を甘やかした。
一人っ子政策は、中国社会の伝統だった年長者を敬うという儒教の教えをひっくり返した。北京の民間調査会社、零点調査公司が行った意識調査によれば、今の中国では多くの家庭で子供が最優先され、祖父母が後回しにされている。
甘やかされた一人っ子は「小皇帝」と呼ばれ、メディアはその言うなりになる親たちの姿を社会現象として書き立ててきた。文駿は子供としては多少わがままだったが、深刻な問題はなさそうだったと、近所の人は言う。
唐の幸福は長くは続かなかった。99年12月、国有企業の合理化を進める政府が、計器工場を傘下に置く企業グループを売却した。唐夫婦を含む2000人の労働者は、新会社の下でそのまま雇用され、給与も福利厚生も従来どおり保障された。だが新しい経営陣が不採算部門の閉鎖を始める。熟練工の唐は警備員に配置換えになった。
03年には妻が解雇され、唐も早期退職を勧告された。月収100ドルの仕事を手放す代わりに、退職金と今まで住んでいた社宅の所有権を与えるという条件だった。これで唐もマイホームをもつことはできた。唐にとっては、それが経済改革の唯一の恩恵だった。
だが結婚生活はうまくいかなかった。失業したほかの夫婦と同様、唐と妻は口論が絶えず、激しい夫婦ゲンカは、04年ごろには近所の噂のタネになっていた。唐は妻の浮気を責めていたらしい。
昔の仕事仲間が中国メディアに語ったところでは、唐は暴力を振るっていたという。本誌の取材に対して、近隣住民は「よくあること。妻が浮気をして夫のメンツを失わせたのならなおさらだ」と、暗に唐の暴力を認めた。
05年6月、唐は離婚した。妻のほうが家を出たようだが、転居手続きは取られておらず、行き先はわかっていない。
毛沢東時代の中国では、離婚はまれだった。夫婦それぞれの職場の離婚許可が必要だったし、地域の居民委員会が思いとどまるよう説得した。だが03年の新法で手続きや費用が簡素化されると、離婚件数は急増。昨年1年間だけで18・2%増えた。
唐は06年に再婚したが、2カ月しかもたなかった。近隣住民は再婚相手の名前も知らなかった。