最新記事

中国社会

殺人事件が語る中国の闇

北京五輪期間中にアメリカ人を刺し殺した男は、いかに負け組へと転落したか

2009年4月7日(火)16時19分
メリンダ・リウ(北京市局長)

 こんな恐ろしい事件を起こす男にはみえなかった――唐永明(タン・ヨンミン)を知る人はそう口をそろえる。

 北京五輪開幕の翌日である8月9日正午過ぎ、13世紀に造られた観光名所の鼓楼で事件は起きた。47歳の唐は刃物でアメリカ人夫妻を襲い、その直後に高さ約40メートルの西のバルコニーから飛び降りて自殺した。

 バレーボール米代表チームのコーチの義父トッド・バックマンは死亡し、妻のバーバラは重傷を負った。一緒にいた若い中国人ガイドも負傷した。

 唐の動機は今も不明だ。「異常なところはまったくなかった」と、以前失業した唐に職を斡旋した地域相談員の王(ワン)は言う。王の同僚も「どうみても普通の人だった」と断言する。

 事件当時は、犯人が「普通の男」であることが安心材料になった。当局はテロではないと判断し、オリンピックは続行された。だが、普通の男の犯行であることのほうが厄介だった。失業、結婚生活の破綻、一人息子の浪費癖という唐を追い詰めた問題は、今の中国ではありふれた悩みだからだ。

 この30年の経済改革で中国のセーフティーネットは切り裂かれ、社会は大きく変貌した。今や中国は世界最悪のストレス社会。改革開放30周年を12月に控える当局が、景気刺激策に総額4兆元(約57兆円)を投じるのはそのためだ。

 政府が躍起になるのも無理はない。毎年新しい雇用を保障するため、中国経済は7・5〜8%の成長を維持しなければならない。すでに全国で労働争議や暴動が頻発している。今年は中国の玩具メーカーの半数が倒産し、数百万人が失業した。重慶では数週間前、燃料値上げに怒ったタクシー運転手たちが警察車両を燃やす騒ぎも起きている。

 唐も彼らと同じ不満をかかえていた。当局の目を気にして、彼を知る人たちの口は重い。だが唐の物語は、表面からは見えない中国社会の水面下に広がる緊張感を示している。

 唐は61年、浙江省杭州市郊外の村で生まれた。当時の中国は政府の厳しい統制下にあったが、「鉄飯碗」(割れないお碗)と言われたように、国が仕事や家、基本的な生活サービスを保障していた。

 その後の市場経済導入はかつてない繁栄と同時に、熾烈な競争をもたらした。人口10万人当たり23人という中国の自殺率は、アメリカの2倍以上。上海市精神衛生センターの最近の発表によると、この10年に市内の鬱病患者は4倍に増えた。

 とくに唐のような中高年層は深刻なダメージを受けている。昔は貧しくとも誇りをもてたが、今は金がすべて。「やり場のない怒りをかかえる人たちもいる」と、広州の心理学者韋志中は言う。「国のために頑張ってきたのに報われていないと彼らは考えている」

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ワールド

トランプ氏、米軍制服組トップ解任 指導部の大規模刷

ワールド

アングル:性的少数者がおびえるドイツ議会選、極右台

ワールド

アングル:高評価なのに「仕事できない」と解雇、米D

ビジネス

米国株式市場=3指数大幅下落、さえない経済指標で売
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:ウクライナが停戦する日
特集:ウクライナが停戦する日
2025年2月25日号(2/18発売)

ゼレンスキーとプーチンがトランプの圧力で妥協? 20万人以上が死んだ戦争が終わる条件は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 3
    メーガン妃が「アイデンティティ危機」に直面...「必死すぎる」「迷走中」
  • 4
    1888年の未解決事件、ついに終焉か? 「切り裂きジャ…
  • 5
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 6
    ソ連時代の「勝利の旗」掲げるロシア軍車両を次々爆…
  • 7
    深夜の防犯カメラ写真に「幽霊の姿が!」と話題に...…
  • 8
    私に「家」をくれたのは、この茶トラ猫でした
  • 9
    飛行中の航空機が空中で発火、大炎上...米テキサスの…
  • 10
    トランプが「マスクに主役を奪われて怒っている」...…
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 3
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 4
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 5
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 6
    朝1杯の「バターコーヒー」が老化を遅らせる...細胞…
  • 7
    7年後に迫る「小惑星の衝突を防げ」、中国が「地球防…
  • 8
    ビタミンB1で疲労回復!疲れに効く3つの野菜&腸活に…
  • 9
    「トランプ相互関税」の範囲が広すぎて滅茶苦茶...VA…
  • 10
    墜落して爆発、巨大な炎と黒煙が立ち上る衝撃シーン.…
  • 1
    週刊文春は「訂正」を出す必要などなかった
  • 2
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 3
    【一発アウト】税務署が「怪しい!」と思う通帳とは?
  • 4
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」…
  • 5
    「健康寿命」を延ばすのは「少食」と「皮下脂肪」だ…
  • 6
    1日大さじ1杯でOK!「細胞の老化」や「体重の増加」…
  • 7
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 8
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 9
    世界初の研究:コーヒーは「飲む時間帯」で健康効果…
  • 10
    「DeepSeekショック」の株価大暴落が回避された理由
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中