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メディアNYタイムズが見限った男
ニューヨーク・タイムズ初の黒人編集局長だったジェラルド・ボイドの回顧録が暴く名門メディアの裏側
ニュースメディアの編集室には、不幸と不条理が付き物。ジャーナリズムの世界で働いたことのある人なら誰もが知る常識だ。
とはいえ、アメリカで最も偉大な新聞を作っているのが、本当にこんなに不道徳で信用ならない人々だなんてことがあり得るのか──ジェラルド・ボイドの回顧録『タイムズ時代の黒と白』(ローレンス・ヒル社)を読んで、そんな疑問を抱いた。彼の死後に出版されたこの回顧録には、元ニューヨーク・タイムズ紙編集局長のボイドが同社で出世の階段を上り詰めた過程が克明に記されている。
ボイドは01年9月、アフリカ系アメリカ人としては初めて同紙の編集局長に就任した。しかし若手の記者だったジェーソン・ブレアによる記事盗用・捏造事件の責任を負わされて、03年夏に辞職に追い込まれた。
その3年後、癌にむしばまれたボイドは屈辱を晴らせないまま、56歳でこの世を去った。『タイムズ時代の黒と白』は、名誉挽回のチャンスになるかもしれない。
ボイドと私は家を訪ねたり食事をしたりする間柄だったが、そんな私にとってもこの回顧録は新たな発見に満ちていた。
「新聞記者として出世の階段を上っている間は、本当の自分を隠していた」と、ボイドは記している。「それがこの業界で生き残り、成功する唯一の方法だった」
昇進は差別是正の暴走か
ボイドはミズーリ州セントルイスの貧しい家庭に生まれた。幼い頃に母親を亡くし、父親に捨てられたため、父方の祖母に育てられた。奨学金を得てミズーリ大学に進学し、ジャーナリズムの世界で頭角を現し始めた。
セントルイスポスト・ディスパッチ紙でスター記者となり、ニューヨーク・タイムズ紙に引き抜かれた後、ホワイトハウス担当記者やいくつかの管理業務を経て、ついに編集局長となった。
ボイドは有色人種の地位向上の象徴でもあり、見方によっては差別是正措置(アファーマティブ・アクション)の暴走の象徴でもあった。本人もそれを自覚していたようだ。上司で恩人のハウエル・レインズ元同紙編集主幹について記したくだりでは、こう問い掛けている。「私を編集局長に指名した彼の決断は、4世紀にわたって黒人を迫害してきた白人の罪悪感にすぎなかったのだろうか」
問題のブレア記者と特別な関係などなかった、というボイドの主張を私は信じる。ブレアの記事捏造はボイドの指示だなどという噂は、2人とも黒人だという偏見からでっち上げられたにすぎない。ニューヨーク・タイムズが02年にピュリツァー賞の7部門に輝くという前例のない偉業を達成できたのは、ほかならぬボイドの力があったからだというのに。
20年ほど前、私は同紙の相談役だったキャサリン・ダローにインタビューしたことがある。彼女は同社の従業員が会社を相手取って起こした差別訴訟について語った。
女性が原告の差別訴訟は、まるで家族間の争い事のように見えたという。対してマイノリティーが原告の場合は「あまりに少数派であまりに関係が薄く、あまりにギャップが大きい」ため、決して家族間の裁判には見えなかった。
ボイドもその溝は埋められなかったようだ。彼の追悼式には2度出席したが、1つは主に黒人が参列し、もう1つは同社幹部を含む白人が圧倒的多数だった。
聞けなかった疑問の答え
辞任の数カ月後、ボイドは同紙の発行人アーサー・サルツバーガーと朝食を共にした。「私はどうしても、彼に2つの疑問をぶつけることができなかった。なぜ私をクビにしたのか、編集局長を解任するにしても、なぜ社内で別の仕事に就かせてくれなかったのか」と、彼は書いている。
私はサルツバーガーに電話して、この疑問に答える気があるかと尋ねたが、答えはノーだった。
推測するに、ボイドは同紙にとってあまりにも大きな負担になったのだろう。目を向けたくない問題を思い出させる存在になってしまったから──それがボイドの質問に対する答えかもしれない。
それでも、ボイドを厄介払いして再出発したことは残念極まりない。彼を社内にとどめ、彼の力も借りて問題の解明を進めていたら──そうすれば、ニューヨーク・タイムズ初の黒人編集局長がこれほどの不条理を感じながら同紙を去ることもなかっただろう。
[2010年3月 3日号掲載]