追悼マクナマラ、計算高い泣き虫男
ベトナム戦争を泥沼化させた「戦争犯罪人」で傲慢な「人間計算機」……元国防長官はしかし、そんな評価には収まりきらない複雑な人間だった
良心との葛藤 回顧録でベトナム戦争は「間違い」だったと告白したマクナマラ Reuters
7年ほど前、ベトナム戦争当時の米国防長官ロバート・マクナマラの伝記を書こうと考えたことがある。ベトナムで犯した過ちを自ら検証しようとしてきた彼の意気に興味をそそられたからだ。
頭脳明晰で本来は立派な人間である彼が、戦争犯罪人のように非難されることになった悲劇にも心引かれた。良心との葛藤を続けてきた彼が、自らの行為をどう釈明するのか知りたいと思った。
私はマクナマラに電話をかけた。彼とは面識があったし、マクナマラも私が書いたロバート・ケネディの伝記について話しかけてきたことがあったのだ。
ワシントンのオフィスで、マクナマラは私を歓待してくれた。米政権に集まった精鋭が愚かな戦争にのめり込んでいく経緯を描いたデービッド・ハルバースタムの著書『ベスト&ブライテスト』に収められた写真のマクナマラとは、少し変わっていた。後ろになでつけた濃い髪や、眼鏡のレンズを貫く燃えるような目はもう見られなかった。だが、自信だけは一片たりとも失われていないようだった。
数学の天才としてケネディ政権入り
私はほとんど質問をせず、マクナマラが一人で喋り続けた。彼はまず、自分は不当かつ重箱の隅をつつくような批判を受けたと言った。方程式さえ正しければ正解が得られると信じ込み、計算に頼りすぎて失敗したという非難だ。
それはまさに、第二次大戦で兵站を担った後、マクナマラと共に自動車メーカーのフォードに移った数学に強い「ウィズ・キッズ(天才児たち)」に対する評価そのものだ。
61年にジョン・F・ケネディ大統領から国防長官の指名を受けると、当時フォード社長だったマクナマラは彼らを引き連れて政権入りした。マクナマラと仲間たちが、未知への挑戦を掲げるケネディ政権のニューフロンティア政策で、どんな問題にも答えを見つけられるホープと期待されたのはそんなイメージのせいもある。
だが当時のマクナマラからは、冷徹で禁欲主義的な雰囲気はとうに失われていた。ワシントンで彼は、すぐに泣く男として知られていた。68年に国防長官を辞任したときも、感極まってスピーチを続けられなくなった。
私はマクナマラには2つの面があることを知っていた。ワシントン・ポストのオーナー(つまり私の雇用主)でマクナマラの親しい友人であるキャサリン・グラハムとの昼食で何度か、彼が強力な論理で場を支配するのを見た。一方、『マクナマラ回顧録――ベトナムの悲劇と教訓』の出版記念パーティーでは、胸が一杯で喋れなくなった。
だが私が彼と会って伝記を書く可能性について話し合ったとき、彼は自分が事実や数字の裏まで見通し、感情や直観を基に決断を下せる男として描かれることに固執した。
頭の中に「人命のバランスシート」
わかった、と私は言った。だが次に奇妙なことが起こった。彼は50年代にフォードの経営幹部だった頃、シートベルトの装備を強力に進言した自分の役割について長広舌をふるい始めたのだ。安全性に対する彼のこだわりが、数万の人名を救ったと彼は言った。
彼は今も頭の中で計算をしているのだということが、私にも少しずつわかってきた。人生のバランスシートだ。
そう、ベトナム戦争で米軍増派を繰り返し戦争の泥沼化を招いた彼の初期の決断は、数万の犠牲者を生んだかもしれない。だがそれ以前フォードにいた頃の彼の行動は、長期的により多くの人命を救った、というわけだ。
私はさらに2回マクナマラと会ったが、最終的に本を書くのはやめにした。一つには、その頃ちょうどエロール・モリス監督のドキュメンタリー映画『フォッグ・オブ・ウォー――マクナマラ元米国防長官の告白』が公開され、そのなかでマクナマラの複雑な人間性がよく描かれていたからだ。私が本を書いてもあれ以上のものはできなかっただろう。