同性婚禁止と戦う米記者の告白
戦いの歴史の教訓を学べ
私たちの手続きをした裁判官は「大丈夫だ」と言う。法律の事後適用は合衆国憲法第1条で禁止されているからだ。建国の父たちが合衆国憲法を(州の憲法と違って)変更しにくくしておいてくれたことには、感謝の言葉しかない。
アメリカ人はみんなそうだが、この私も建国の父たちの理念を尊重するよう教育を受けた。「すべての人間は平等につくられている」という独立宣言はその代表格だ。学校で教師が独立宣言を引用したときは、とくに誇らしかった。この宣言を書いたのは、大昔に死んだトマスという名前の親戚だからだ(私の名字をご覧あれ)。
皮肉なことに、私たちの結婚の権利を剥奪するうえで中心的な役割を果たしたのは、私と父が一族の歴史をたどって偉大な祖先に行き着くのを助けてくれたのと同じ団体だった。その団体とは末日聖徒イエス・キリスト教会、つまりモルモン教会だ。提案8号推進運動に投じられた資金の半分近く、金額にして1500万ドル以上は、州の人口の2%を占めるにすぎないモルモン教徒の寄付だった。
いま同性愛者の間では、モルモン教会への反発が高まっている。同教会の免税措置を取り消せと主張する活動家もいるし、提案8号を支持したモルモン教徒が役員を務める企業に対する不買運動を呼びかける活動家もいる。ハリウッド関係者に対し、モルモン教の本拠地ユタ州で開催されるサンダンス映画祭をボイコットせよと求める声も出はじめている。
しかし最大の問題は私たち自身にあるのだと、私は気づきはじめた。今回カリフォルニアで起きたことは、キリスト教右派と同性愛者の30年間にわたる戦いの最新の局面にすぎない。私たちが70年代の戦いから教訓を学んでいれば、結果は違っていたかもしれない。
私の世代より若い同性愛者は、昔の戦いをほとんど知らない。当時を知る同性愛者権利運動の先駆者たちは早々と、HIVという名のウイルスに倒れていったことが最大の理由だ。それに同性愛者差別の禁止が法律に明記され、一部の州では同性カップルに夫婦に準じた権利を認めるなどの進展があり、油断していた面もあったのかもしれない。
同性愛者の戦いの歴史を学ぼうと、私は考えた。歴史の勉強は高校の社会科の教師に教わるのが一番だ。高校時代の教師を訪ねることにした。
現在76歳のロバート・ガーランドは、ユリシーズ・グラント高校で私が教わっていたころ、性的志向を決して公表しなかった。ガーランドとトム・エシントンがカップルだということは、周囲の親しい友人たちも自然と察していただけだった。ガーランドがようやくエシントンを「配偶者」と呼べるようになったのは、今年の8月20日。2人が出会って50年目の記念日のことだった。
ガーランドがグラント高校の教壇に立ったのは67年。同性愛者の集まってくるバーにいるだけで逮捕されかねない時代だった。「みんなあのころは性的志向を隠していた」と、ガーランドは言う。
ニューヨークのグリニッチビレッジの一角にあったストーンウォール・インは、そういう同性愛者の集まるバーだった。69年6月のある夜、このバーに踏み込んだ警察と客の衝突をきっかけに同性愛者の暴動が拡大。このストーンウォール暴動は、現代の同性愛者権利運動の出発点になった。
しかし、警察の同性愛者いじめはこの後も続いた。74年9月、サンフランシスコのカストロ通りで警官たちが同性愛者の男性数十人を暴行する事件が起きた。引き金は、「そこをどけ、ホモ野郎」という命令を同性愛者の一人が無視したことだった。