高度成長期を支えたマンモス団地「松原団地」60年の歩み 建て替え進み多世代共生の新しい街へ
家賃もかなり高額だった
このように一体的な住環境づくりができることが大規模住宅団地の強みであり、さらに各住戸も鉄筋コンクリート造の住棟にダイニングキッチン、水洗トイレをはじめ最新の設備が入っていた。当然ここまでのことをすれば総工費も高額で、小学校などの公共施設を除いた日本住宅公団が建設した部分の工事費だけで83億円(土地買収費含む)かかっている。
そのため家賃も高額で、当時の大卒国家公務員の月収が1万5700円という中、一番コンパクトな間取りの1DK(33平方メートル)でも月5650円、共益費600円だった。それでも初回の入居募集780戸に対して1万725件の応募があった。倍率にすると13.75倍というのだから驚きだ。当時いかに「団地」が憧れの住宅であったかがうかがえる。
入居した世帯はどんな人たちだったかは、1965年に発行されたパンフレットに掲載されている世帯主のデータからうかがうことができる。全戸のうち1人世帯はなく、36.9%が2人世帯、34.1%が3人世帯と実に7割が核家族であった。職業や通勤地にも大きな偏りがあり、職業は85%が会社員、通勤地は96.7%が東京23区内、なかでも丸の内・銀座・品川で57.1%を占めていた。世帯主のほとんどは「埼玉都民」の会社員だったのである。
草加市が大規模住宅団地の計画に協力した大きな理由にホワイトカラー層の流入による市税増収があった。まさに期待どおりの人々が5000世帯以上も移り住んできたのである。
一見華々しいスタートを切ったように見える松原団地であったが、大規模開発には当然のことながら課題もつきものだった。ほかの大規模な日本住宅公団建設の団地で起こっていた問題と似たようなものとしては、鉄筋コンクリートの乾燥が甘かったために害虫が発生したほか、上水道整備が間に合わずに早朝と昼の1~2時間と夜しか給水されないという日々もあった。
ほかにも、松原団地特有の大きな問題が2つあった。1つはD地区西側に1967年に開通した国道4号線草加バイパスの騒音、もう1つが梅雨から秋の時期にかけて発生した冠水・浸水といった排水の問題だ。特に排水の問題は20年以上住民を悩ませた。
はじめての冠水被害は1966年に発生したといわれる。主な要因は農業用水として綾瀬川から分派して開削された伝右川の排水機能低下にあった。大雨が降ると綾瀬川に伝右川の水が排水できなくなり、逆流する。それが松原団地に流れ込むのだ。
毎年梅雨から秋にかけて少しでも大雨が降ると松原団地は冠水に悩まされた。特に伝右川に近いC地区やD地区での浸水は夕立で20ミリ程度雨がふるとすぐにひざまで水につかるほどだった。
冠水被害は年々悪化
冠水・浸水被害は1980年代まで年々悪化していった。その主な理由は周辺の都市化だ。
松原団地造成後、草加市内の農地は着々と住宅や工場、道路に転換されていった。そのため、農地が果たしていた遊水機能は失われていく。その結果として農業用水として開削された伝右川に近い元低湿地帯の松原団地に流れ込む水が増え、冠水・浸水が激しくなったのだ。つまり、松原団地では都市型洪水が日常的に発生していたといっても過言ではないだろう。
事態を打開すべく、住民も動いたが、本格的に対策が始まったのは1979年10月に発生した台風10号で草加市内の広い範囲が浸水してからだった。綾瀬川水系の広い範囲で越水や洪水が起きたことが要因で、排水機能を向上させるべく、綾瀬川や伝右川をはじめとした綾瀬川水系で護岸工事や排水機場整備が行われた。