「浅い」主張ばかり...伊藤詩織の映画『Black Box Diaries』論争に欠けている「本当の問題」
DOCUMENTARY FILMMAKERS ARE RUTHLESS
ただし仕事を終えて飲酒して際どい言葉を口走る彼の音声は、(少なくともこの瞬間には)公務からは逸脱しているし、ジャーナリズムとしては全く不要な要素だ。
でもドキュメンタリーならば、結果として作品のテーマに沿ってしまった彼のこの言葉を、使いたくなる気持ちは分かる。僕もきっと使うはずだ。
捜査情報を漏洩した彼が、組織や家庭で居場所を失う可能性は高い。既に失っているかもしれない。その責任は取れるのか。取れるはずがない。
だからこそドキュメンタリストは人を傷つける覚悟をしなくてはならない。責任を取れない覚悟をしなくてはならない。後ろめたさや負い目を持ち続けなくてはならない。「人としてどうか」「まともな神経じゃない」などの批判や罵倒も覚悟しなくてはならない。
補足するが、これは僕の定義であり流儀だ。ドキュメンタリストが100人いれば手法は100通りある。だって規範やルールはないのだ。でも絶対に譲れない一線がある。自分のエゴを常に最優先して、社会規範や組織のルール、誰かの良識などに従属しないことだ。
自らをジャーナリストと伊藤詩織監督が名乗ることは自由だ。でも名乗るならばジャーナリズムの原則やルールを守るべきだ。情報提供者は徹底して守る。加害は最小限にする。客観性と公益性を優先して、社会正義の実現を何よりも重視する。それが大前提になる。