江戸時代の「ブランディング」の天才! 破天荒な蔦重の意外と堅実なビジネス感覚
『画本東都遊』浅草庵作・葛飾北斎作 1802(享和2)年 国立国会図書館蔵。蔦屋重三郎の書店「耕書堂」の店先を描いたもの。 初代・蔦重の死後、葛飾北斎によって描かれたものの彩色版。
<喜多川歌麿、東洲斎写楽ほか、数々の才能を発掘し、世に送り出した江戸のメディア王・蔦屋重三郎。彼の秀でたビジネスの手腕について、大河ドラマ『べらぼう』の版元考証も務める鈴木俊幸氏が語る>
2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』では、江戸の出版人・蔦屋重三郎の生涯が描かれる。
蔦屋重三郎こと「蔦重」は、吉原に生まれ、多くの文化人たちと交流しながら、さまざまな流行の火付け役となった人物である。蔦重とはいかなる人物だったのか、その経営手腕とはいかなるものだったのか。蔦屋重三郎研究の第一人者である中央大学文学部教授の鈴木俊幸氏に解説いただいた。
本記事は書籍『PenBOOKS 蔦屋重三郎とその時代。』(CCCメディアハウス)から抜粋したものです。
安定した経済基盤とブランディング戦略
蔦屋重三郎は吉原に生まれ育ったとされますが、そもそも蔦重の両親が何をしていたのかはまったくわかっていません。尾張出身の父・丸山重助が、なぜ江戸に出てきたのかもわかっていませんし、母・津与の素性もよくわかりません。ただ吉原には尾張出身者が多くいたようで、「尾張屋」という屋号の遊女屋や茶屋もありましたから、そういった縁故で、蔦重の父は吉原で働き始めたのかもしれません。また母も吉原の茶屋の娘かなにかだったのだろうと推測されます。蔦重には、吉原で駿河屋という茶屋を営む叔父がいました。おそらく母親のほうの兄弟ではないかと思います。
その後、蔦重は喜多川家の養子となります。同家の家業はよくわかっていませんが、茶屋であったとすれば、吉原に集まる通人たちと接する機会も多かったと考えられます。当時の吉原は文化水準が高く、そのなかで蔦重も揉まれ、教養を身につけていったのでしょう。同姓で10歳くらい年下の喜多川歌麿も、のちに蔦重のところで食客的な扱いを受けながら、作品を制作しています。
この喜多川家の義兄にあたるのかもしれないのですが、蔦屋次郎兵衛という人物が吉原の出入り口である五十間道(ごじっけんみち)で茶屋を開いていました。その店先を借りて、蔦重は貸本屋を始めると、やがて吉原のガイドブックである吉原細見を手がけた鱗形屋の改め・卸しを担当するようになりました。遊女の異動などを調べて情報を提供し、吉原細見に反映する仕事です。その後、蔦重も自ら吉原細見を作るようになります。鱗形屋が偽板事件によって摘発を受けて吉原細見を発行する余裕が無くなり、そこから蔦重版の吉原細見の独占が始まるわけです。
蔦重版の吉原細見は、鱗形屋版よりも判型を少し大きくし、1ページあたりの情報量を増やすことで、ページ数を削減し、紙代を節約しています。鱗形屋版よりも格安で卸せたはずです。こうして、あっという間に蔦重版の天下となりました。吉原細見は年に2回、刊行しますから確実な定期収入となります。同時に、吉原細見に広告を付けたのも旧来の吉原細見にはなかった点です。蔦重は自分の版元から出す出版物が増えていくにつれ、逐次的に広告ページを増やしていきました。有力な広告媒体になったと思います。
蔦重は、黄表紙の出版にも力を入れていきますが、単価も安く、儲けはそこまで多くなかったでしょう。しかし、当時、黄表紙は注目の的となった絵本ですから、それを刊行している版元であることを世間に周知するために、宣伝効果を期待して出し続けたのだと思います。最先端の出版物を取り扱うことで、ブランドイメージが形成されて、取引に有利に働く。そういうブランディング戦略があったのだと思います。
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