TBS日曜劇場が描かなかった坑夫生活...東京ドーム1.3個分の軍艦島での「荒くれた心身を癒す」スナックに遊郭も
開店は人口流出防止? お酒やダンスも楽しめるスナック
ニコニコ食堂前の石段を下りると木造建築があり、「海野酒店」「鐘ケ江酒店」や豆腐屋があった。
51号棟の1階には個人商店が人居し、「海野酒店」は購入した酒を店内に設けられた立ち飲みスペースで楽しむ「角打ち」で賑わっていた。「海野酒店」の他には「鐘ケ江商店」でも仕事を終えた鉱員が角打ちを楽しみ、店内は賑わっていた。
島内唯一のスナック「白水苑」は、もともと警察署の派出所があった場所。2階にあった旅館「清風荘」の喫茶部門として1964(昭和39)年頃に改装された。そのため入口の看板には「スナック」ではなく「清風荘喫茶部」と書かれていたという。
店内にはカウンターが配置され、お酒だけでなくダンスも楽しめる大人たちの社交場だった。このスナックは鉱員のために三菱が経営を行っていた。というのも、1964(昭和39)年に坑道の深部で火災が発生し、消火のために建物を水没させなくてはならなくなったことが発端だった。
約1年間の採炭休止となったが、将来を不安に思った労働者が島外に出ていってしまうことを懸念して、娯楽施設を造り人口流出を防ごうとしていたのだ。
昭和初期の軍艦島には、一見普通の建物に遊郭があった
島内にはナイトスポットも小規模ながら点在していた。大衆的な酒場は主に2軒。18号棟地階の小料理屋「厚生食堂」と、25号棟の1階にあったスナック「白水苑」だ。
他にも17号棟1階のビリヤード場、16号棟1階の碁会所、48号棟地階の麻雀店といった娯楽施設が存在していた。1971(昭和46)年には、パチンコ店が開業してしまう。労働組合が福利施設として会社と交渉した結果獲得したもので、当時は新たな名所として期待が集まったようだ。
しかし、閉山までの3年間という短命に終わってしまった。
島には大正時代にはすでに遊郭があったとされ、昭和には日本人専用の「本田」「森本」と、朝鮮人専用の「吉田」の3軒の遊郭が、島の南部にあった南部商店街に店を構えていた。
1933(昭和8)年発行の『長崎新聞』には、「本田」に関するこんな記事がある。
「炭粉にまみれた坑夫たちの荒くれた心身を愛撫してくれるのも炭坑端島のもつ柔らかな一断面である」。遊郭が、危険と隣り合わせの坑夫たちにとって、どんな存在だったのかがうかがえる一文だ。
やがて、吉田は文具店兼洋装店へと姿を変え、残り2軒も1956(昭和31)年に島を襲った巨大な台風9号により壊滅。翌1957(昭和32)年には売春防止法が施行され、軍艦島でも遊郭は表向きには姿を消すこととなった。
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