「ミステリーを超えた法廷ドラマ」カンヌ・パルムドール作品の監督が語る創作魂
A Very French Interview
トリエ監督は、山荘で男性が転落死し、小説家の妻が殺人容疑で裁判にかけられる本作を「謎解きゲーム」にしたくなかったという ©LESFILMSPELLEAS_LESFILMSDEPIERRE
<夫の死をきっかけに暴かれる家族の真の姿を描いた映画『落下の解剖学』(2月23日公開)のフランス人女性監督が独自の制作スタイルと創造の舞台裏を語る>
昨年のカンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールに輝いた『落下の解剖学』はフランスの女性監督ジュスティーヌ・トリエの作品。
ドイツ人の女優ザンドラ・ヒュラーが小説家サンドラに扮し、同業の夫サミュエルを殺害した罪でフランスで起訴され、フランス語と英語で自らの無実を主張する法廷ドラマだ。
公判では夫婦生活の亀裂が明らかになるが、それでサミュエルの死の「真実」が暴かれるわけではない。
なぜか。
この映画の主題は、他者の人生や人間関係、創作の魂は誰にも読めないという真理にあるからだ。
よくある謎解きミステリーに仕立てなかった理由や言語へのこだわりについて、スレート誌ダン・コイスがトリエ監督に話を聞いた。
──まず、この映画での言語について。サンドラはフランス語と英語を使い分けているが、彼女はフランス語が苦手で、英語は得意。夫のサミュエルも、彼女に合わせて言語を使い分ける。
複数言語の切り替えは、あなたの人生においてどのような役割を果たしているのか。そもそも、この映画でその問題を取り上げたのはなぜ?
第1に、私と言語との関係は変化し、すごく動いてきた。
若い頃は言語になじめないというか、なんだか臆病なところがあった。
言語が自分自身を助ける武器になるとか、デリケートな状況から抜け出す役に立つとか、そうやって言語という武器を使いこなすまでには時間が必要だった。
この映画に話を戻すと、言語がまさに中心的な問題になっている。
私たちは言語の異なる領域間を行き来しているのだと思う。
一つは家庭や親密な関係で交わされる直情的な言語で、そこでは話が通じなくてもなんとかなる。
一方、法廷では現実を把握するために分析的な言語が使われる。言語との関係がより知的でクールなものになる。
だからこの2つの言語の領域を掘り下げて、人が一方から他方へどのように移行するのかを解明したら面白いと思った。
──いわゆる「犯人捜し」の映画というジャンルがある。最初は謎めいていて、最後に真実が明かされるというようなものだ。でもこの作品は違う。最後で真犯人が分かる展開は考えなかった?
最初から今のような形でやるつもりだった。
巧妙な謎解きみたいな映画は、見る側としても好きじゃない。
この映画はそうじゃなく、映像の欠如、物事の欠如に基づいている。
物がないから、それだけ想像力が働く。