芥川龍之介と黒澤明の『羅生門』で心をリセットする──ゴールデンウィークに読破したい、「心に効く」名文学(1)
出典:堀辰雄・葛巻義敏・芥川比呂志 編集『芥川龍之介作品集第6巻』2023年5月3日-wikimedia commons
<自分と異なる考えを持つ人が許せない...。そんな人が芥川龍之介『羅生門』を再読すると、頭の凝りがほぐれてしまう「文学の効能」とは?>
人が物語に救われてきたのはなぜか? 文学作品が人間の心に作用するとき、我々の脳内では何かしらの科学変化が起きているのだろうか。
版権の高騰がアメリカで話題となった、世界文学を人類史と脳神経科学でひも解く、文理融合の教養書『文學の実効 精神に奇跡をもたらす25の発明』(CCCメディアハウス)より第16章「頭をリセットする」を一部抜粋する。
信念を再検討する発明を自分が利用するには
芥川龍之介が自殺によりこの世を去ってから23年後の1950年、世界的に有名な映画監督、黒澤明が映画『羅生門』を製作した。
そう聞くと、このタイトルからして芥川の小説『羅生門』を映画化したものだと思うかもしれない。だが実際のところ、この映画の筋立ては主に、芥川の別の短編『藪の中』に基づいている。
だが映画『羅生門』は、小説『羅生門』とは別物とはいえ、その語りの枠組みとして、この短編小説の深層構造を借用している。芥川の下人を庶民に、芥川の老婆を杣(そま)売り[薪を売る者]に置き換え、杣売りがある武士の死を語るところから映画は始まる。
杣売りがその語りを終えると、その武士の死の物語が、今度は別の人物の視点から語られる。その後、やはり同じ武士の死の物語が、さらに別の2人の人物の視点からも語られるが、それぞれが語る物語はいずれも、ほかの人物の語る物語と一致しない。
この技法はしばしば、黒澤の語りに対する不信感、あるいは現実そのものに対する不信感をかきたてるための工夫だと誤解されてきた。
しかし、芥川の元の短編小説同様、黒澤の映画が観衆の心に引き起こすのは、疑心暗鬼ではなく心神喪失である。この映画の語りは、進行するに従って信頼感が薄れていくどころか、常に信用できるもののように見える。
観衆は自分の目で、それぞれの人物が語る武士の死の物語を目撃するたびに、いま見ている物語こそが正しいという印象を受け、記憶のなかにある先に語られた物語に対して、次々と「再検討」を迫られる。
そして映画は最終的に、芥川の小説の結末にあった出来事に戻ってくる。庶民(下人)が杣売り(老婆)の目の前で、利己的な盗みを働くのだ。これを見て観衆は、人間の本性に関する杣売り(老婆)のたわ言をなぜ信用してしまったのか、と考えさせられる。
これはまさに、映画のタイトルから観衆が期待していた幻滅的な結末である。芥川も最終的には、このような「再検討」を促していた。
ところが黒澤は、そこからさらなる再検討へと観衆を導いていく。独自の工夫により、最後にあるエピソードを追加したのだ。そのエピソードでは、杣売りが羅生門のそばに捨てられていた赤子を自分の子どもとして育てることにする。希望の光により、羅生門を覆う雨を追い払ったのだ。