芥川龍之介と黒澤明の『羅生門』で心をリセットする──ゴールデンウィークに読破したい、「心に効く」名文学(1)
この予想外のハッピーエンドは、観衆の脳を強く揺さぶる。映画評論家の清水千代太は衝撃のあまり、この結末は「間違い」だと黒澤を批判したほどだ。
だが、この結末は間違っていない。芥川の元の小説の結末を変えることで、それを背後から支える「再検討」というイノベーションをさらに徹底しているのである。
この第二の「再検討」により、『羅生門』はポストモダン的な懐疑主義への新たな試みだとするこれまでの確信が、この映画は前近代的な感傷主義を復興させるものだとする新たな確信による挑戦を受ける。
すると観衆は、この相反する2つの確信に疑念を抱き、それまで心のなかに抱いてきた信念から引き離されて心神喪失に陥り、どこかのある時点で、自分は信じられないことを信じていたことに気づく。
この心神喪失は、疑心暗鬼ほど長続きしない。そのため観衆のなかには清水千代太のように、自分に疑念を抱く状態から、他人を非難する状態へと移行してしまう者もいる。「ここはあなたが間違っている」というわけだ。
しかし、心神喪失を拒絶して疑心暗鬼を優先していては、自分自身の思考を検証する機会を失ってしまう。
そのため芥川以降の作家たちが、その機会をもっと利用できるよう手助けする文学作品で世界中の図書館を満たしてくれている。語りの反復や修正、語り直しなどの技法を使い、自己点検を促す既視体験をもたらす作品である。
たとえば、ジェイムズ・ジョイスの『若い芸術家の肖像』[邦訳は丸谷才一、集英社、2014年など]、ネラ・ラーセンの『パッシング/流砂にのまれて』[邦訳は鵜殿えりか、みすず書房、2022年]、ベルトルト・ブレヒトの『母アンナの子連れ従軍記』[邦訳は谷川道子、光文社、2009年など。『肝っ玉おっ母とその子どもたち』という邦題もある]、チヌア・アチェベの『崩れゆく絆』[邦訳は粟飯原文子、光文社、2013年]、カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』[邦訳は伊藤典夫、早川書房、1978年]、フィリップ・ロスの『ポートノイの不満』[邦訳は宮本陽吉、集英社、1978年]、アマ・アタ・アイドゥの『アワ・シスター・キルジョイ(Our Sister Killjoy)』[未邦訳]、ティモシー・モーの『過剰な勇気(The Redundancy of Courage)』[未邦訳]、J・M・クッツェーの『恥辱』[邦訳は鴻巣友季子、早川書房、2007年]などがある。
自分の考えとは違う考えを望まないような人は、こうした心神喪失体験をもたらす本で頭をリセットしてみてほしい。
そういう人は、見るものすべてを信じてしまう運命にあるのかもしれないが、フィクションという紙の筒をのぞいてみれば、別の見方ができるようになる。
『文學の実効 精神に奇跡をもたらす25の発明』
アンガス・フレッチャー [著]
山田美明[訳]
CCCメディアハウス[刊]
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